音と手と、








目的地に向かって進み始めたばかりの地下鉄は、朝のラッシュを漸く捌ききってとろとろと空気をかき混ぜていた。乗客全員が座れるほどすいてはいないが、かっちりしたスーツも制服の喧騒もない、ゆったりとした薄明るさ。娯楽施設というには地味な観光地以外を目指す人もたくさんいるはずなのに、退屈な平日は華やかさをどこかに置き忘れている。


「よーこ、この曲、」


大概においてレディーファースト(というのもおかしな言い回しだが、)の聖がひとつだけ空いた席にすとんと座る、その私に対する遠慮の無さを私は恐らく彼女が思っている以上に好いている。もっとも今日の私の足元がピンヒールか何かであったら有無を言わさぬ目線で促されただろうし、座ると同時に嵩の張る紙袋をさらっていった辺り気遣いを忘れたわけでもない。


「この曲って言われてもね」


わからないわよ。
しゃかしゃかと微かな音が聞こえる気がするイヤホンを指差されたところで、超能力者でも何でもない私にわかるはずがない。わかったらむしろ聖の方に問題がある。主に騒音や迷惑という点において。

音漏れの可能性を完全には消せないんだから、と聖に忠告した私に、あるかないかの危険性ばっかり心配してたら何もできない、とまるで私みたいな論法で反駁した聖は、自分自身咄嗟のその言い返しで私をやり込められるとは思っていなかったらしく詰まった私を前にきょとんとしていた。説教中というには間抜けな空気が生ぬるく流れた後、勝ち誇った顔で笑ってみせるはずの聖がじわりと頬を赤くして、今度は私の方が吃驚させられた。――どうしてそこで照れるのよ。うるさいなあ、私の勝手じゃんか! ……論点をおおいにずらした口喧嘩はそれから暫く続き、投げ遣りに白旗を振り回した聖のエビチリソースは格別の味だった。今朝のスクランブルエッグも私好みの半熟だった。食後の珈琲は私には少し濃過ぎたけれど。


「こないだの映画の、」

「映画の、何?」


その先を言わない聖。ん、と片耳から外した細いコードを私に差し出す、出力部分を向けられ錯覚が激しくなる。怒る最初のタイミングを逃した私に、半分故意の混ざった笑み。無邪気な本心が確かに紛れ込んでいるからたちが悪いのだ。


「馬鹿なこと、しないで」

「いいから」

「よくない」


ごう、という唸りが止まり人の入れ替えがわずかに行われる。イヤホンを持たない手に握られていた再生機器本体を取り上げようとすれば、するりとその手自体に包まれる。理解の範疇を超えていて一瞬呆けた、その隙に掴み直されて、慌てて振り払おうとしても抵抗の真似事にしかならない。不本意な距離で睨みつけると聖は朗らかに笑った。素が7割を超えると私はもう完全に怒れなくなる。


「ほら、充電切れちゃうから、早く」

「どうして朝から充電切れを起こすのよ」

「どうしてだろうねぇ」

「ふざけないで」

「これ、鞄の底で暫く眠ってたから」

「…ばかね」

「ばかですよー」


暖簾に腕押し、ぬかに釘。怒髪天などとうの昔に通り越し脱力感の壁も最近では切り崩されているとあっては、ため息も出尽くしたと表現したって不足無い。この先には今度は何が訪れるのか、あまり知りたくはないがそのうち知らざるをえなくなるのだろう。多分。……お願いだから朝から疲れさせることしないで。喉元まで出かかった嫌味は余計な飛び火を呼びそうだったのでなんとか押し留めて、私は再び不毛な空中腕相撲に意識を向ける。呼び名が適切でないという自覚はあるもののまともな呼び方がこれっぽっちも思いつかないのだから仕方ない。押し問答の実体化とでもいうのか。……馬鹿馬鹿しい。


「帰ってからで良いわ」

「それじゃ半分っこできないじゃん」

「スピーカーだって同じでしょ」


むしろ凝り性の聖が何時だったか購入してきたあれの方が音質はよほど良い。いったい幾らしたのかは恐ろしくてとても聞けなかった。まあ自分の稼げる範囲で趣味に費やす分には何も言うまい、と決めている。例外は飲酒と煙草、というのは付記しておかないといけないかもしれないが。(限度をわきまえなければ健康に害があるし周囲に迷惑がかかるしそれに何よりキスの味が不味い。口にしたことはないが愛飲直後は私が露骨に嫌がることもあって真意は恐らくばれている。)


「密着度が違う!」

「……それこそ違わないわよ」

「え、」

「…あ、」


ぱっと口を押さえようとした手は聖に支配されていて、揺れた車内にかこつけて銀の手すりを握りしめたところで結局顔は隠せずじまい。逆に増える気すらする、というのまでは口に出さずに済んだと言ったってそんな微妙なイフでは慰めになどなりはしない。羞恥がそろそろ怒りに変換されそうな私は眼前の緩んだ表情のうちどれくらいが純粋なものなのか考えるのをやめた。故意と無意識の境が何処にあろうと、根底に流れるのは10割丸々が私への愛しさなのだ。それはもう、腹が立つくらい恥ずかしいことに。


「じゃあ、帰ったらね」

「…ええ、楽しみにしてるわ」


……あまり口に出したくない本心ではあるけれど。否定や沈黙は聖を余計に調子づかせるだろう。解放してくれない右手以上の助長を許すことはできない。思い出したかのように効かせたスナップは、気がついたかのような力のこめ具合でいとも容易く無効化した。握力だけならむしろ私の方が微妙に強いくらいであるのに、タイミングや組み合わせを熟知した聖に私はこういったやりとりで勝てた試しがない。形勢を逆転するのに口論に引きずり込む以外の切り口があるのなら教えて欲しい。

ごとん、と列車は私の都合など構わずに動く。カーブに伴った揺れが収まり滑り込んだのは大きめの乗り換え御用達駅だった。とろんと心地好い怠惰に浸かっていた車内が緩やかに活性化し、乗り込んできた子供の甲高い声が響く。


「ふふ、どうぞ」

「!?」

「あ、どうも」


聖の隣に座っていた女性も立ち上がりにこりと笑って降りていくのに、今までとは比べ物にならないくらい動揺した私の背を汗が伝った。咄嗟に睨み付けた聖に引っ張られそのまますとんと席に着かされる。紅潮を隠せない私を聖が笑う。そんな、嬉しそうな態度を見せられても、今の状況を把握した私にはとても幸せになったりする余裕はない。
恥ずかしさから巻き起こる怒りが心頭を埋めつくし、私は離す気配のない聖の左手(憎らしいことに恋人繋ぎで結びついている)に彼女より勝る握力を力一杯籠めた。痛がりながらもやっぱり嬉しそうとか、本当、腹が立つったら。




















ざるそばさま宅の、ふたりで音楽を聴いてた聖蓉が可愛かったので便乗してしまいました。
公衆の面前でいちゃついてる暑苦しいふたりですがよろしければ貰ってやってください。
誕生日おめでとうございます。

(2009/08/17)

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といって押し付けたのがもう5年以上前だということに、打ちのめされています……。
ジャンルは変われど相変わらず毎日しあわせを頂いています。ありがとうございます。










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