4 時 の 孤 独 ( 聖 )




入り組んだ、高架を支えるコンクリートのオブジェの下は排気の臭いで満ちていた。小さい頃、くぐり抜けたら知らない世界が広がっていそうにも見えた穴。走れば数秒で通過できるそこは、いつまでも暮れた気配を漂わせている。制服では絶対に来られない場所。多分、私服であっても来てはいけない場所。いつか、遥か昔に配られた危険区域のわら半紙にも記載されていた気が、する。



……もう今は関係無い、か。


濃緑の制服に腕を通さなくなって随分経った。少なくとも、右手に少し潰れて握られている箱の中身が合法になるくらいには。乗ってきた車は乗り捨てられたかのように道のあちら側に放置されている。鍵を付けたままだ、と不意に思い出し、けれど思い出すだけで。黄色のボディを見つめる。どうでもいいな。確かに少しばかり面倒なことになる可能性はあるけれど、そんなちっぽけなことはどうでもいいことだ。ゴトゴトと大型車両の走っている質量が伝わる。早朝のトラックは疲れている。重い響きが途方も無く代弁していて、私は協調するかのように笑ってみた。パラリと剥がれた、劣化したセメントが地面まで気怠そうに落ちていく。外の世界では青白い野草が風に震えていた。






逃げてきた。何もかもから。


物など大して持たないのにどうしようも無く散らかっている私の部屋から。相変わらず世話を妬きにくる親友から。唐突に電話のかかってくる幼馴染から。癖のある学友から。
朝食の用意、週末が期限のレポート、ビールの空き缶、溜った洗濯物。指折り数えて、馬鹿らしくなってまた笑った。いらないものを数えるのはとびきり非生産的だ。果てが無くて意味も無い。そうだと思い込めることだけが利点。



笑いを形造るために口を開けたら、何かを摂取しなければならないように思えた。どうせ吸い込むならうんと悪いものを、と箱の後ろを叩き一本くわえる。ごそごそと二つしかないポケットをあさって、今の自分には着火が出来ないことを知る。それも多分、あの部屋に置いてきてしまった。古びたアパートの扉は、施錠してきたどうかさえ定かでは無い。鍵も封じ込められているかもしれぬことを考えると、矢張り忘れたのだろうか。迎える人を決定的に持たぬまま、ただ受け入れる準備の整った302号室。番号も剥げた扉。



心中で、車体を黒く塗り潰す。妙な存在感を浮かびあがらせたため、次は透過させてみた。ひとつずつ確実に消していく作業。虱潰しに消していく。


もう、私に残っているのは記憶だけ。凄く楽しかったことか、凄く苦しかったことだけが、脚色されて浮かんでいる。ふわり。それは風船を膨らませる作業に似ている。薄く伸びていく樹脂はどこまで耐えられるのだろうか。見上げると灰色。でもここからは、飛んでいけない。




唇に挟まれたまま、煙草は添えられた手によってあっさりと折れた。もったいないと思う前に落下させ踏み潰す。苛立たしげにトラックが通りすぎる。沢山の荷物を載せて。私の知らない、或いは知っている何処かへと運んで行く。


未だ光合成を始めていない植物の密やかな呼吸は、この穴の前で力尽きていくかのよう。淀んだ空気の苦さが吸い殻にもならなかったものを思い出させる。もう一度笑おうとして、けれどあげた口角はその表情を造ることに完全に失敗した。もう、それすら置いて来てしまったのかもしれない。




馬鹿ね。
急に鮮やかに聞こえる、包み込む声と、醒めた声と、呆れた声。不思議に皆揃って溜め息をついていて。輪唱が途切れると次には他の人達の顔が次々と浮かんできた。
残された記憶とやらに、どうやら私は励まされているらしい。幻聴は場所のせいかエコーがかかっていて、鼠色では無い彼女達は草木の青白さを吸い込んだかのように澄んでいた。




……煩い。


消そうと塗り潰そうと色を重ねても彼女達は消えてはくれなかった。全て混ざれば黒になる、筈なのに。思いつくままに暗い採色を施していく。結局私のキャンパスは背景にしかなりえないことに気づき、私はやっと手を降ろした。敗北の印はハンズアップ。では今の自分は一体何なのだろうか。



ゴウと音を立て、かすめるように乗用車が一台、くぐっていった。煙くて軽く咳き込む。行楽へでも向かうつもりなのか、眠そうな子供達を後部座席に乗せた推定父親業の男が通りざまに視線を寄越していった。いぶかしんだだけだろうに、見下されたかのようで不快感が募る。肺いっぱいに満ちた空気は逆流することを急かし、手をついた壁からは尚も剥離した欠片が降ってきていた。これだけ落ちるならそのうち崩れるのではないだろうか。私がここにいるうちでは無いにしたところで。



瓦礫に埋もれていくところを想像する。甘く優しい想像。運び損ねた荷物が落ちてきて私は目を閉じる。小さな新聞記事くらいにはなるかもしれない。死者一名。日常に紛れていく出来事のひとつになってしまえばもう後には何も残らない。スクラップ帳の空白が、はたはたと音を立てていく。




現実はこんなに優しくなんてない。




思春期らしい厭世感。とっくに思春期を通りすぎた私は仕方無しに目を開け直す。頭上の揺れは怒鳴っていて追い出された私は、ゆっくり車のあった場所へと歩いていった。


抱かれていた音が、消えて。




孤独、好きだったのになあ。



未練のように後ろを振り向くと睨まれた。はいはいと肩をすくめておく。純粋に肌寒いことも手伝ってそのまま縮こまっている肩。仄かに色をつけ始めた雑草の霜を拭う。透明より少し黒ずんでいて、今度は懐かしげにぽっかりと空いた穴を眺めた。非難を聞き流しそれこそ穴が空くくらい見つめる。感傷なんて柄じゃない、だからとびきり愚かな感傷をしてやろう。
黄色に戻した車に乗り込む。落ちていく色は錆のようだった。鉄分の臭いが漂い流れていく。多分、あの穴に吸い込まれていく。



見えなくなった風船がパァンと破裂した。




エンジンをかけると、鈍い振動がまた私を灰色へと連れ戻そうとした。残念に思う気持ちと共に振り払い前を向く。アクセルを吹かして排気を撒き散らす。


再生された記憶はだんだん数を減らしていって、最後に残ったひとりが笑った。私がさっきしていたよりももっと、そう、世界を肯定する笑顔。私ごと肯定されて、少し気恥ずかしい。




君がいない世界なら、全て消えてしまえと思ったんだ。




口の中にくすぶる排気と言い訳と告白をまとめて舌で転がして。車体は一瞬で高架をくぐり抜けた。



広がる世界は勿論さっきの続きで。私は束の間の不在を埋めるかのように世界に飛び出した。







































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