1 8 時 の 沈 黙 ( 蓉 子 )





小さな頃の砂場は何か得体の知れないものだった。独りでも集団でも何も言われない数少ない場所でもあったから、私はよくそこで息を潜めていた。藤棚の下、保育園の片隅。正門にいっとう近いのにいつも薄暗い、湿った場所。ホースつきの蛇口を勢いよく捻り、一面が水びたしになって行くのを茫と眺めていた。今の私らしく無いと、友人なら笑いでもするのだろうか。或いは蓉子らしいと、言うのだろうか。どちらも有り得そうでそのときの表情まで想像出来て、湧き上がった複雑な感情を私は溜め息に還元した。茹でているスパゲティの湯気に混ざり、視界を白く染めて消えていく。タイマーが小さく間延びした様子で鳴って、やっと、我に返った。ちょっとした気恥ずかしさが、つま先から、ひやりと立ち上ってくる。二人分のパスタを放り込んだ鍋は、作り置きをするいつもと同じ重さ。それなのに全く違う気分。人のため、なんて大層なことでは無いけれど。自分では無い相手を明確に描いて作る料理は、とても嬉しいのだ。楽しいよりは、矢張り嬉しいという気がする。それが好きな人なら、尚更。

愛してるっていうより、なんだか似合ってるかな。今の気分には。

そんなことを頬を緩ませながら思えば、同時に扉の開く音に。思わず繕ってしまう表情。自分ながら呆れてしまう。少しだけ不格好。きっと気づかれている、小さな、意地。流し込んだ牛乳が煮立って、入れなければならない調味料を理由に聖には背中を向けたまま。ただいま。お帰りなさい。お邪魔しますとはわざと言わない、その挑発には今は乗れない。すぐ後ろに立った気配に、皿を出してと素っ気なく言って。何かを遠ざけるように、一瞬目を瞑った。一呼吸、二呼吸。幸せになりきる前に必要な手順。

差し出された腕の白さに私はぞくりとする。自分を自分で人知れず抱きしめたくなるような、そんな震えが緩やかに襲いかかり、菜箸が銀色の鍋の縁に当たって、つまみ上げていた麺が滑り落ちていく。絡んでいた白がべっとりとペンキのようにつき、すぐさま薄まりしたたっていく。丸皿ごと引っ込められた聖の体の一部分に、私は無性に安堵した。この気持ちは多分聖には伝えられない。誰にも、うまく、伝えられなどしない。

それは、自分自身に、対しても。

何かのまじないのようにそう思い、頭の中でその言葉を繰り返し再生し、そっと置かれていた皿を取り上げよそっていく。もう動作は滞らない。横目で汚れたコンロを見ながら、玉ねぎを乗せ、ピーマンで彩る。家にあったあり合わせの材料は、栄養より何より色の組み合わせで決めてしまった。それでも、緑の上に更にバジルをかけていく。さりげない矛盾はいつも私を不安定にさせそれから現実へと引き戻す。珍しく、大人しく椅子に座っている聖の手に既にフォークが握られていて、私は少し笑ってみることにする。試すように。自分の位置を、地図の上に指差して乗せて、確かめるように。聖が来たとき漏れた笑いとは、明らかに異なるもの。してみてすぐに、後悔にも似た気持ちで恥ずかしくなる。聖には銀製品が似合うと、ステンレスの流線型を見ながら思って。私はまた一歩バランスを崩す。想像の世界で足元にからりと音がして小石が崩れ壊れていく。隣に聖はいない。あの頃の藤棚の隣にあった大きな、よく登っている子のいた木だけがはっきりと分かる世界。想像というよりは、たまに、夢に出てくる世界とでもいうのだろうか。端々が曖昧で寂寥としている癖優しげに誘いかけてくる場所。聖が抱いていた独りきりの楽園はどんなものかは知らないが、そしてこれはけして楽園などとは思えないが、私の考える独りの世界はきっとこんなものだ。近くに誰かいそうで、いそうでけれど確かめることは出来ない、場所。分かりきっていること以外は全てが急に、変動し、構築されその分朽ちていく。そこに聖がいないことは分かりきったことで、だからそれは壊れはしない。知っていてなお、聖、と思う。思いと行動はいつもばらばらだ。無意識に望む世界には一番大切なものが抜け落ちている。ケアレスミスで満点を逃したテストを受け取ったときに似た感触だけが残っている。

聖さえいれば何も要らないとは言えない自分を、私は嫌になる。嫌になった自分に少し安心して、それから虚しさがこみあげてきて。何がなんだか混乱して、私は立ち尽くしてしまった。どれほどの時間だったのか。両手に持った夕飯を傾けないことで精一杯だった私が誤魔化すように口にした、食べましょうかの言葉は、もうどうしようも無いくらいかすれていた。聖の顔が正面に来る位置に腰を落ち着けて、その後、いただきますと言う。レスポンスは遅く、静かに。

どう見たっておかしな私にどうしたのかと聞けない聖の弱さを、とても愛しく感じる。今度の感情は愛おしさだけで、上塗りされた白さを隠すように私はベーコンを突き刺して口に運んだ。端の焦げた色。その向こうに見えた、聖の、難しい表情。それまでまとめて飲み込んでしまえるのでは無いかと、余り噛まずに奥へと押し出してしまう。どこを向けば良いのか分からなくて、昨日洗ったテーブルクロスの模様を数える。ひとつひとつ。ミシン目をなぞるように。


……蓉子


切欠をくれたのは珍しくも聖。それが嬉しいようで、でも何にも触れて欲しくは無かったようで。無造作に追いやられた白皿の上はいつの間にか空だった。聖はそういえば食べるのが早かったと、今度こそ私を捕まえるために伸びてくる腕を前にしてぼんやりと思う。子供みたいに立て膝をついて、私の視線を固定する。口づけるときと同じ。逃げられないって分かっているのに私はどうしても動きたくなる。恥ずかしいより何より本能として。遮断出来ない視界が、聖の真っ直ぐさが。私には眩しくて戦慄するのだ。いつも。手から抜き取られた食器が音もなく置かれる。空になった皿に二本置かれた鈍色はどこか滑稽で私は俯くことすら許されないまま静止していた。聖の手によって。






















(24時の歓声へ続く)


















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