2 4 時 の 歓 声 ( 蓉 子 )





好きな人。好きな、人。


たったひとりを指すために使われるはずの呼称。安っぽくひらりと落ちる白紙のような、長い間口内に残されたガムのような感触のする、言葉。それが言う時なのか言われる時なのかははっきりとしない。睦事の時の苦しさにもデートの誘いを断る寂しさにも添えられる感情表現。水野蓉子から佐藤聖に口にするより、間違いなく、逆の方が圧倒的に多い。私が少ないのか聖が多いのか、足して2で割ればちょうど良くなるのか、皺になったシーツの上に横たわる私にはそんなことばかりがくるくると思い浮かぶ。古い洋画を見てくると言って、私を誘うこともせずに寝室を出て行った聖は、薄く膜のようなものを纏っていた。夜の帳、ささやかな気遣い。私よりずっとアルコールに強い彼女はこんな時にばかり私に優しくする。耳を澄ませばテレビから弾丸の撃ち込まれる音でも聞こえる気がして、それからボリュームは絞っているに違いないのだから不可能だろうと、私の中で言い合いが始まる。寝過ぎた後の気だるさと同じ密度を持った空気は静かに開放された。扉を開くと急に飛び込んで来る明かりに、思わず竦みかける。


聖の少し丸まった背中が、私は好きだ、と思う。それは、聖を好きというよりは、無責任で無い気がする。手の平だけでなく顔を全身を押しつけてしまいたい。振り向かれる前に。聖に、見つめられるよりも前に。抱き寄せられるより笑われるより先に、聖を掴まえたいと。聖から遠ざかりたいと夕飯の前に思った時くらいに強くそう思う。
けれど矢張り私が聖の背中に辿り着く前に聖は私の方を振り向き、見つめ、抱き寄せてくる。スキンシップが苦手だったはずの聖は当時の反動のように貪欲に私に触れてくる。あくまで、自然に。主人公格の男が英語で何か叫んでいる他は聖の鼓動しかしない。

どうしたの?

不器用な温かさ。それはまだどこか角張っていてその分私に強烈に痕を残していく。しっかりとした回答を持たない私は代わりに昔の話を呟いていた。合いの手の無いのを良いことにとりとめも無く。痛みの無い過去。保育園、緑のプール、桃色の園舎。藤棚、すべり台、仲の良かった男の子。時系列は滅茶苦茶で聖の腕の中は気持ちが良かった。自分が少し不安になる程に。

……へえ、私もだよ、それ。

独りきりの砂場に話が及んだとき、聖はぽそりと私に囁いた。
思わず顔を上げた私に聖の顎が綺麗に重なって。うめき声と共に離れた温もりに私は咄嗟に手を伸ばしていた。呆気に取られた聖の表情の後、広がったのはソファの原色と寝間着のパステル。一呼吸置いてから弾けた聖の笑い声。くつくつと、低く、とまる様子も無く繰り返され次第に大きくなる。私は身動きも出来ないままただ髪を梳かれていた。なんだか決まりが悪くて言い訳の言葉を口にする。自分でも分からないくらい、小さく。


それは、考えたこと無かったわ。


保育園じゃなく幼稚舎だったけどね、と当たり前の相違点をあげる聖に私はゆっくりと全身を預ける。黙々と水の流れを眺めていたあの頃に似た切なさが段々と溶け別のものが込み上げてくる。好きだよ、とまた性懲りもなく言う聖に私は何も返すことが出来なかった。ぎゅ、と握りしめた生地にはきっと私の不器用な感情がこもっている。

聞いたことのある映画の主題歌は私と聖の間を低く漂っていた。ハッピーエンドなのか鳴り響いた歓声もどこか遠く私たちはそのまま抱き合っていた。漸く零れてきたものには気がつかないふりをして、私はやっと、今を肯定する。幸せだと、聖が好きだと、肯定する。


聖の腕の中はどうしようも無いくらい暖かくてだから怖かったのだと言うことは、私には、やっぱり出来なかったけれど。







































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