散歩  聖江





コンビニを出たら、江利子がいた。

どこをどう歩いていたのか。土曜の夕方。私の家と彼女の家とリリアンまでのちょうど真ん中くらいのコンビニの前に。
まるで私を待っていたかのように、佇んでいた。


「家まで送って」

命令口調での物言いが気にならない人物は限られている。
彼女がその希少なひとりということが楽しくて悔しい。
タイトスカートで乗るつもりかと、視線で伝えたがそ知らぬ顔で寄って来た。このまま私にキスすることとも、私の首を絞めることとも大して違いの無いような表情で。

いつもより単純に倍となった重みで。自転車は一度だけ小さく悲鳴をあげて進み始めた。江利子の家とは、真反対に。
少しだけうさ晴らし。出発進行。

背後の文句は切った風と共に流れていく。やがてつかれた溜め息も私の吐く息も一緒に。最後に残ったのは静寂。煩いくらいの。

ガタンと揺れて、腕が一本。腰に回って。でも、それだけ。時折きこきこ鳴りながら自転車は知らない道を滑って行く。

信号で止まって。坂を登る。不思議と前に登ったことがある気がする。ここを抜けた先には何があったっけ。いつもよりほんの少し足が辛い。腰を浮かせたら叩かれた。
「危ないじゃない」
「…こっちの台詞よ」

結局三歩は、引いて歩いた。



閑静な住宅街を駆け降りる。タイヤの感触は少し重くて、その癖いつもより軽い。腕の力が強くなって。風がうなる。江利子は無言で。
「聖、飛んで行けそうね」
うん、分かってる。


公園で久しぶりに缶ジュースを飲んだ。江利子がコンビニの袋を気にしている風だったからビターチョコをパキンと割って投げ渡す。
……避けられた。
チョコレートって蟻が食べるよな、でもビターだしな。
随分大きいその欠片を詰まらなそうに、若干気まずそうに江利子は見ている。まさか砂の上のものは拾わないだろうけれど。


空はゆっくりと傾いていく。


空き缶をカコンと放り投げた。ゴミ箱にシュート。勿論外したりなんかしない。

「行こうか」

ハンドルを切って。再出発。
江利子の家まで、後三十分。








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日常続き  蓉子




ショートケーキを食べていた。王道であろうとなんであろうと、私はこれが好きだったのだ。
白いクリームを掬いとる。口に運ぶ間、聖はずっとスプーンを回していた。くるくると、手先だけはとても楽しそうに。


その先の顔は余りに矛盾していて、理由を暫し推察してみる。味が気に入らなかったのか、何か他に頼みたいとか。単に眠いというのもあるかもしれない。思考パターンは単純なくせに私には不可解なことが多く、当たったことは実はそう多くはない。異星人の襲撃を憂いているとか、と考えかけ、それはどちらかと言えば江利子の領域だろうとひとり納得する。とにかく聞いてみなければ始まらない、と聖に向き合うと先に真摯な目を向けられ戸惑った。顔が熱っている、とはっきり自覚する。
誤魔化すようにケーキにフォークを突き刺す。口に入れるまでが妙に長く感じてしまう。体感時間の適当さに私は腹を立てた。


「ケーキ食べるときまで優等生?」

反射的に向いたのは聖ではなくそのケーキの断面。だって上から下まで掬った方がおいしく食べられるじゃない。スポンジと一緒に反論は飲み込んで、そっと聖の方を窺う。
呆れてるわけじゃない。怒っている口調でもない。プイと反らされた顔はほんのりと染まっていて、そうまるで。


……なんだ、照れてたの。

思わず入れたもう一口は、冷たかったけれど甘すぎて、それで頭を冷やそうとした私は失敗した。完敗。貴女にはやっぱり敵わない。


仕方が無いから、という訳でも無いけれど。ごめんなさいは私から言ってあげようと決めた。とりあえず、このケーキを食べ終えたら。







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日常3  蓉子






本の整理をしていたら、はらりと一枚紙切れが落ちた。
乱雑に積み上げられた本の合間、少しばかり苦労して摘みあげる。
高校時代、使っていたメモ用紙だった。裏には誰かが書き損じた様子の走り書き。多分、始末書の類。
ひっくり返す。黄ばんだ紙のやや上の方に、伝言。

「すぐに戻るから、待ってて」

昔の同級生、今の恋人のちっとも変わっていない筆跡。本当にただこれだけのメモ書きを栞代わりにして、大切にしていた自分に笑みが零れる。懐かしくて、暖かいのは今があるから。
ふふ、ともう一度眺めて私はまたそれを本に挟み込む。適当に、なんて私らしく無いかもしれないけれど。

プレスするようにその本の上に更に色々積み上げて。
聖の真っ直ぐな字と、それを綴るときの指の長い右手を思い出しながら私はまた静かに片付けに戻っていく。


少し、幸せだった。





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梅雨  蓉子





眼前に張り付いている水滴は、少し世界を重たく見せている。ツキンと痛むこめかみに触れるついでに落ちかけていたフレームをあげておく。ふと視界の端に映った新緑に、早く書類に埋没しようと意図的に速めていた歩調は軋むように衰えた。なんとなくばつが悪く、埋め合わせのように傘を回してみる。一斉に跳ねる水の珠。

入梅は随分と昔だったのにも関わらず、快晴が続いていたこの一週間はまるで充電期間だったと言わんばかりに降りつける雨は昨夜から続き。水はけの悪い場所では一種の洪水の体を要して来ていた。大きな水溜まりの水面が揺れたり様々なものが照り映えている様を見るのは好きだったが、濁流となりどうどうと流れていくのには閉口してしまう。迂回路は思ったより遠く、タイムロスもかさんでいた。そんな中どうして足を止めたのか。定かでは無かったが、ただ、静かな雨音の中私は佇んでいた。


仕事用の眼鏡を外してしまえば。何だか、ずっとここに居たい気になってしまう。少しずつ湿っていく衣服は更に私を躊躇わせた。パッと鮮やかな色。洗われるとはこのことを言うのだろうな、と、吐息。


憂鬱までもを吐き出すと私にはもう何も残らなかった。ずっしりと腕にかかる負荷を抱え直し、世界を少し重くして。



私はきっぱりともう一度歩き出した。

トンと背中を押された気が、した。





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toy box  聖





初等部の頃の道具箱をひっくり返して掴み取ったそれは、小さくて本当に玩具みたいだった。昔誤って白ボールと一緒に左手を切ったものとはとても思えないくらい。薄い刃を透かしてみたけど勿論当時の跡など残っているはずはなく、ところどころ錆びているところくらいがそれっぽいかな、とこじつけて無理矢理笑った。そうしなければならない気がした。

腕の上に乗せるとそれは益々安っぽく見えて、切れない刃物って痛いんだよな、とひとり頷く。袖を捲りあげて、Tシャツにしておけば良かったと思い、ふとその刃を布地に押し当ててみる。シャーッと小気味良く滑っていって、……なんだ切れるんじゃない。拍子抜けしてそれがおかしかった。


銀色をいっぱいに出して、パキリと机に押し付ける。零れるように折れた、カッターナイフと呼ばれていたもの。中途半端に歪んでいて、それは相変わらずちっぽけだった。
適当に投げ捨てる。掴んだ拍子に手に一筋の赤が走る。ペロリと舐めるとチャイムが鳴った。



Yシャツを脱ぎ捨てて、私は玩具の世界から一気に抜け出す。くだらない考えに頭は支配されて、それから玄関口に向かって叫ぶ。



今行く。


そう、後少しで。


















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