聖蓉Ⅰ




錯覚とは便利な言葉だ。
ありふれた雪が降った日、いつもより音を無くした住宅街に張り出したベランダで、哲学にすらならない戯言を呟いてみたのは口寂しかったからだ。一度咎められただけであっさりやめてしまえた喫煙は、私の仮面にすら役不足だったということなのだろう。白い息と共に、少し前まで考えていたわけでもない言葉がこぼれ出て、寒々しい景色が実をもって私の身を冷やしていくのをぼんやりと体感する。口寂しい。それよりも人肌が恋しい。否、触れる贅沢など無くていいから姿が見たい。
電波に伝い聞いた声はは、蓉子のものでしか有り得なかったけれど蓉子ではなかった。
寂しいと、言って困らせたくないと自重してしまうくらい、弦のような強さが削ぎ落とされてしまっていた。
それは錯覚。便利な言葉。会う口実の欲しい私が粗探しした、勝手に作り上げた弱ってる蓉子の像。
叱られるのは好きだけど心配はさせたくないから、押しかけたりしないし、風邪をひく前にここからは退散する。
だから絡みつく大人の不自由を代償にもたらされる安定が錯覚でないことを呪うくらいは、許されたっていいじゃないか。




















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江蓉




暁闇は大抵薄ら寒い。
冬に限らない感慨は、ありふれた不義の証左のようで。顔のない世間に指を指して笑われている心地にもなる。錯覚とは便利な言葉だ。錯覚と気づいている錯覚は、夢のそれと似て、空虚な上に苦い。沁みる自虐。

しなくていいわよ、と言い放つ。前々から抱え続けてきた言葉だった。暖めすぎて腐敗した。その錯覚も矢張りエゴの苦味を十二分に帯び、江利子はきょとんとして、私の顔を、それから自分の手を、まじまじと見て、それから真顔で考え込み出した。ややして見つめ直して、恐ろしく真面目なまま、「あの日?」思わずはたいてしまったのは致し方無いことだろう。ばか江利子。
綻びを繕う努力自体、いい加減擦りきれてしまっている。私は倦んで、江利子は飽いて。おざなりになるのは会話や行為だけではなくて、この粗い目では遠からず漏れ出してしまうだろう。
自分を騙し続ける私は卑怯で、臆病だった。













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聖蓉Ⅱ




幼い鼓動を閉じ込める。
苦しみは私の外にある。
蓉子。蓉子。可愛い人。ばかな人。
呟いてみても、自分のセンスのなさに呆れるだけだった。詩人は遠い。遠いものは好きだ。
届かないから安心できる。
蓉子に届いた手が、触れた感触が、侵した指先が。洗っても握りしめても消えてくれない。
錯覚ならよかったのに。私の妄想なら、何度でもやり直せて、泣かない蓉子を抉ることもなかったのに。
こんなつもりじゃなかったのに。
もっとずっと大事にしたかった相手は、呆気なく抵抗をやめて、目を閉じた。
なぜ視界を閉ざしたのかは、嫌な想像しかできないから考えないようにしている。













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江志




「起きてたの?」

「……はい」

いけませんか、とでも言うつもりだったのか、返答には咄嗟に飲み込んだ否定を飲み下す間があった。それから起き上がる、手を伸ばす。私から触れないことへの不満が、白い腕の内側から透けて見える。
同じだな、という感慨。不実極まりなく、だから示すまいとして無表情になった私を、志摩子は不安気に見つめた。捨てたつもりはない過去に、流石に咎めた良心は果たして私のものなのだろうか。
絡む四肢が冷たい。懲りずににじり寄る思い出という錯覚。
錯覚とは便利な言葉だ。
頬を擦り寄せる仕草は志摩子特有で、だからお気に入りなのだと告げて傷つけるのは本意ではない。

数え切れない程の否定を封じ込めて愛を囁く罰は私に、まだ下らないのだろうか。











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