堕ちる距離もなく










「……ねえ、蓉子」

「…なあに……?」


意識の上層と下層(もっともそんなものが本当にあるのかは知らない、)を行き来し漸く無意識の枠に落ちられそうな微睡みにいた蓉子を聖は強引に引き戻す。睦言のつもりなのか、房事の続きなのか、やわやわと胸の起伏の間に指を沈めながら。


「手の届かないものが欲しいときはさ、どうすれば良いのかな」


閨に哲学の領域を持ち込む恋人の目は美しく濁っていた。蓉子は覗きこもうとするが、聖の手が(勿論、間接的に)それを阻む。身を起こせない蓉子は諦めの溜め息を吐く。快感の吐息に似てしまったそれを聖が吸い込もうと塞ぎ自らの瞳すら瞑らされる。無為なことを、とそのまま聖の口内の二酸化炭素を増やすことに没頭する。聖の真意など他のところから汲み取れば良い。どうせ何もわからないのだから。


「……は、」


蓉子の口の周りはべたべたに濡らされる。重力はのし掛かる側に優越を与える。気づけば聖は両手を胸の上で遊ばせている。目的のない平温の戯れは、まるで水を撒かれた砂場で泥を捏ね回す行為のよう。蓉子の体温も中々上がらない。当たり前だ、この器官は快楽のためだけにあるのでは無い。

手の届かないものの入手方法など知らない。禅問答の公案を無学で解けたら悟りなどまやかしだ。蓉子の頭は中々通常の稼働速度を精度を取り戻さない。胸の上で泥団子でも作ろうとしている聖は問題ではない。疲労した身体がただ休息を求めている。

私は、と蓉子は自分に言い聞かせる。いつも正しくあろうと生きてきたのだ。手に入らないものに身を焦がすイカロスになどならないと、諦めに納得を持たせようと知識と努力と忍耐を重ねたのだ。火傷をしなければ軟膏は要らず、まっすぐに歩き続ければ足を踏み外すこともない。分不相応な願いは端から持たない。聖のようにわざわざ世界を生きにくくしたりなどしない。


「……さあ、」


知らないわよ、までは告げぬまま。乳首に噛みつかれ小さく息を詰める。聞いておきながら聞く気は無いのか、こちらを見もしない聖が、空いた右手を下げようとするのを蓉子は片手で止める。そもそも左胸が痛い。昂らせる気もないままぐにゃぐにゃと撓ませられる右側は今度はゴム鞠にでもなった気分にさせられている。頑是無い幼児の相手などそうそうしていられない。


「……聖」


もうやめて、と、明確な意思を。
逆らわず動きを止めた聖はしかし蓉子の上から降りはしなかった。さっき身勝手に噛みついた胸に頭を乗せる。いつもこちら側だな、と蓉子は思う。心音でも聞きたいのか。そう思いついて、初めてどくりとした。気づいただろう聖は人の心臓に耳を当てたままで。


「……そか」


あなたの欲しいものを、私は、知りたくない。
蓉子は聖の手の届かない存在に八つ当たりをする。自分の手が届かないものに諦めをつけた今までを走馬灯のように思い返し、ただ一度踏み外した過去でとまる。現在まで残る火傷が日々深くなっていることに一瞬だけ意識を止める。今だって冷たい体重しか奪うだけの愛撫しかくれないくせに。
方法が教えて欲しいのは、私の方だと。蓉子はかつて培った諦めの用途を違えたまま、届かない距離を埋めようと白い肢体を抱いた。無為な行為を許す聖は、一足先に眠りへと落ちていた。










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