滲むのは境界









期限つきの恋人になりましょう。



そう言い出したのは、どちらからだったのだろう。

私には如何しても思い出せない。掴めない、と言い換えてもいい。こちらの方が表現は適切な気がする。
なぜなら私は言った覚えが無いのだけれど、言われた記憶も存在していないのだ。ならば夢か虚言だと軽々しく片付けてしまうにはどうにもその言葉は鮮明過ぎて。口約束を境に変わる関係というものが引っ掛かったのかもしれない。甘い脆い絆。平衡感覚を頼りに三半規管を狂わせながらも続いていく束の間の逢瀬。溺れていることは正しく自覚している。否。正しい事象などこの世には何も存在を認められていない。

何時だったかそう呟いたら彼女は誰に認められるのかと問うた。私は上手い言葉を見つけることが出来なかった。上手い言葉。そんなもの江利子だって望んでいやしなかったのに。何事もが嘘なら何を言っても許されるのだろうか。正しいの対義語が嘘で無いことくらい私も知っている。それにそれを江利子に告げたら、彼女はまた問うのだろう。誰に許されるのよ、と。

その時何も返せなかった私は、ただ、自分を射抜いてくる瞳から目を反らした。夜気が染み込んでくる羽毛布団に潜り込むことは出来ず。何とは無しにベランダへと続くサッシに視線を固定した。室内より遥かに闇の深い世界は映されることなく代わりに撥ね付けるかのように左右対象の私を作り出す。その瞳と見つめあうことも耐えがたくて私はまた視界を移動させる。その先どこを見ていたかはもう、覚えてはいない。



その夜は夢を見た。胡蝶の夢。現実より優しい世界。けれど願望を現実が上回る筈など無いから恐らく私はこちらで水野蓉子として生きているのだ。蝶の代わりに小鳥、菜の花畑の代わりに水平線すらない海。どうして空を飛ぶことを望むのだろう。天空からは悪い部分も余計に克明だろうに。寝袋のようにぴたりと体を包んで眠りに落ちた私には解り得無い感情だろうか。優等生に常識に縛られ聖に江利子に縛られ、それを望んではいないとうそぶきながら奥底ではどうしようもなく欲してしまっている私には。




耳慣れないぜんまいの唸り声が微かに届いた。
視線をさ迷わせそして納得する。昨夜身に着けたまま寝入ってしまった腕時計が耳元に当たっていた。左目を擦っていた指を離す。頼りなげに宙を踊る手の平。蝶より低く、醜く不確かで。ぱたりと落ちた先は江利子の背中を覆う薄い掛け布団だった。慌てて身を起こす。寝息が聞こえるわけでは無いが江利子は身動きもまたしなかった。ほっ、と安堵とも嘆息ともとれない息をこぼして私は微笑った。多分、笑えていた。


ベッドサイドに置かれた時計に手を伸ばす。僅かなタイムラグの後、浮かび上がる液晶画面。まだ深夜と称して差し障りの無い時間。59分が00分になりはたりと数字が入れ替わる。デジタル時計は好きではない。けれど私はアナログの、針に塗られた蛍光塗料がまた堪らなく嫌だった。夜に不自然に光るものを好むことは出来ない。消費者金融やパチンコのネオンも時たま通る救急車のランプも蛍でさえも。
秒数表示はせわしなく形を変えている。15、16、17。誰が何処にいようと電池のある限りは。人の決めた単位を正確に具現化し続けるのだ。そう、造られている。

期限つきの恋人になりましょう。あれは矢張り江利子の言葉だったのだろうか。暗かった。日の差し込まない屋内だったのか単純に夜だったのかは忘れてしまったが、この空気に似合っていると感じたことだけが頭の隅に引っ掛かっている。こびりついて離れない。
二人で交わした約束。何年か、何ヶ月か。履行期間は後どれだけ残っているのかはたまたもう既に切れてしまっているのか。それらは片隅の更に奥に沈んで掬い出すことが出来ない。漠然と前者なのでは無いかと自分に言い聞かせているだけだ。恋人。ただでさえ寂しい名詞なのに賞味期限まで過ぎてしまっていては救いようが無いではないか。39、40、41。きっかり2分だけ表示してまた消えていく淡いオレンジ。




蓉子。
江利子が私を呼ぶときは、どこか遠くからそれが聞こえる。囁かれたときも呼びとめられたときもまるで一瞬の空白が有って。それからやっと自分のことだと受け付けられる。受け付けられたと思うことが出来るようになる。
江利子と対比しての、他人が口にする自分の名にはきちんと私は反応するのだ。正常と思われる速さで伝わる聴覚。同じ三文字、勿論水野さんとか蓉子さまと呼ばれることもあるのだから厳密にはそう呼べないにしろ、大して差異の無い言葉に示す反応の違いは私に取っていつも疑問だった。


蓉子。


記憶の再生と現実の声が重なった。

起きてたの。
実際に呟いたのか態度から判断したのかは定かでは無いが、とにかく江利子は私のその問いに返す。今起きたのよ。
嘘だ、と思う。江利子はある意味非常に判り易い。本当のことを口にすることなど滅多に無いからだ。
感情は理解が難しいがその代わり割に素直だから私は、江利子の言葉と態度に振り回されている気分に陥る。軽い酩酊と吐気の間を惑う感覚。とろりと強いアルコールを口に含んだような。酒類を飲んだことは無いから全くの憶測にしか過ぎはしないのだけれど。


つい今しがたまで巡っていた思考を表現してみようかと暫し考えたが結局私の口はそれ以上開かれることは無く。江利子も何も言いはせずに。暗闇の中で時計が見る人のいないままに時を刻んでいる。58、59、00。江利子は夜の鏡に映る自分自身を見たとき、どうするのだろう。蝶のようにふらふらと変わる江利子の視点を無意識のうちに追いながら私は思った。思うだけだ。私と同様に目を反らしてくれるのだろうか。この、私の、仮初めの恋人は。



根拠の無い期待、期待と呼べるのかも危ういその感情を私は不意に持て余した。急に風を失った風見鶏の様に。高みから見下ろしながらその実自分では何一つ出来はしない木片を、人は頼った。周りから頼られて頼られたように生きてきた私はだから無風の江利子の望みが分からない。分かろうと思ったことすら無い。

ねえ。

眠そうではあるがいつもと余り違いは無い抑揚で江利子が呼ぶ。視線だけを向けると江利子は唐突にのしかかって来た。時計のスイッチが左肘に当たって電光表示に切り変わる。セロハン越しに眺めたかのような世界にぼやりと江利子が映る。私の唇に江利子のそれが押し当てられた。息を塞ぐ、いや、吸い尽くすために深く。朝靄より遥かに濃い霧に呑まれていく意識。


くだらないこと考えちゃって。
途中、どこかでそう言われたような気が、した。みっともなく声を上げて空気を欲してそれを恥ずかしがる暇さえ与えられず追い詰められて。どこに考えなどと言う物の入る余地があると言うのだろう。そんなことを指摘されたのでは無い。私にも分かっていた。それでも曖昧な矛先をずらし続ける私は。私は。





翌朝、とは言ってもまだ日は出てない程の時間。私の目覚めた頃にはもう江利子はいなかった。隣の温もりも消えていた。恐らくあの後、私が意識を飛ばした後すぐにここを抜け出したのだろう。
そんな事ばかり分かってしまう私が酷く厭わしい。服は纏っていなかったが枕元に綺麗に畳まれていた。そっと触れる。綿の滑らかさだけが伝わってきて、私は弾かれたかのように手を離してしまう。代替品として握り締めたシーツはざらついていた。顔を埋めると夜更けの残り香が微かに、した。
崩れて来る着替えの山。パステル系の色合いが広がる中でカサリと紙の感触。嫌な予感が胸をよぎる。
広げれば、白。流麗な文字でさらりと一行。


こんな時に限って当たってしまう自分の直感が恨めしくて堪らない。無風の室内に取り残された私は江利子のその先の言葉まで汲み取ってしまう。いっそこのメモ用紙の文字が消える程に。

サヨナラ




手で顔を覆うと腕時計の秒針の音がまた聞こえて。振り払った視界で見えた部屋は奇妙に歪んでまるでまだ江利子に抱かれているかのようだった。







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