未 完









痛みを伴わずに彼女を思うことの出来たあの頃がただ無性に懐かしかった。
帰りたい。叶わない。叶わないからこそ、強烈に、願うのだ。叶う幻想ならばそうは呼ばない。夢と同じだ。




   *




優しいだけのことばなどいらない。そう思っていたのに、優しいだけの行為に溺れて行ったのはただ自分の弱さからなのか。蓉子には、判別が出来ないのだ。あのつまらなさそうな瞳を見るたび罪悪感がちくちくとささるのに。それさえも快感の癖に。とヘアバンドをいじりながら言った江利子。そんなに変態じゃない、と喉まででかかって、じゃあどれくらいなら変態なのだと自分で突っ込んで口に出すのをやめた。何もかもを見通されるのは面白くない。くみとってもらう、などという自己欲などこちらから願い下げだった。


「ぁ……っ」


つま先がシーツを滑る。よりどころを求め体の末端が宙をさ迷う。江利子にはしがみつきたくない。絶対に。


愛情なんて迷惑なだけだ、と呟くと江利子は微笑うのだ。いつもの彼女とは違う風に目を細めて。そのことば、が彼女を傷つけているのかは分からない。江利子のことなど何も分からない。


「……っ………んぅっ!」


徹底的な焦らし。懇願したところであっさりと許してはくれない。狂おしくて、狂った挙句自分はいつも何を口走っているのだろう。


「はぁ……あぁ………」


ほとばしる何かが掴めないのだ。ろくな愛撫もないのにあっけなく達してしまう自分は矢張り少しおかしいのかも、知れない。



そこがいいのよ。



簡潔な賛美は体に染み透っては来ない。ザラザラと、行為の後にシャワーを浴びずに寝た翌朝の自分のような不快感と共にある。生理的に厭いたくなるだけのもの。


「……ぁ………」


声が漏れた。抜き取られなかった江利子の指に意識が、今更行ったとでもいうように。


……二本。初めから飛ばしすぎではないいか。文句を言おうと開いた口はその役目を遂行することなく塞がれる。
陳腐な台詞ではあるが、まさに「塞がれる」という表現に等しい動き。



舌がうごめく。自分の体が立てた水音が脳髄まで響いて。頭に靄がかかり朦朧として何も考えられなくなってくる。


「ぅ………ぁあっ……ひっ…!」


もう、一本。いつの間にか背に回った江利子の左手が絵を描き。分散させられた刺激が我を忘れて絶頂まで登りつめることを妨げる。曖昧に笑み続ける江利子の瞳が浮かべた刹那の真剣さに蓉子は怯える。

今更、何に。そう考えるまでの余裕は蓉子に残ってはいなかった。




   *




「ん…………」

「……ああ、おはよう。」


いつもの、朝。ただいつもとは異なり隣には江利子がいた。珍しいと蓉子は思う。否、行為の後に残る等初めてでは無いか。


「どうした、の……?」


昨夜の所為だけでは無い声のかすれと震えが。掴めない怖さを増幅させる。


「何でも無いわ。」


素っ気ない言葉はしかし彼女の表情とは裏腹で。蓉子の髪に触れる繊細な指が小刻みに揺らぐ。
反射的に手を伸ばしかけた蓉子にビクリと肩が動かされる。泣いているように見えるのは気のせいだろうか。鈍痛を訴える腹部は深い思考を妨げる。行き場を無くした右手は言葉と共に惑いそのまま落下した。

落ちた手を持ち上げることも出来ぬままただ江利子の為すがままにされていく。小さく舞う江利子の指。素肌に髪にさらさらと落とされ、蓉子が身じろぎをしかける寸前で止まり。繰り返されて、段々涙目になってきて思わず一歩下がればあっさりと退かれる。拍子抜けして、次いで不安になる。いつもとは違う。それがとうとう明確な形になって現れたようで。


今度こそ、とあげかけた手は江利子に掴み取られそのまま組み敷かれた。跡がつくくらい握られた手首が痛い。形だけの抗議は聞き届けられずに。重い体に、更に負荷がかかっていく。昨日の軌跡をゆっくりと忠実に。緩やかな分、辛い。嫌、江利子、江利子。もっと優しくして。何も考えずにいられるくらい。

懇願はもう意味を為さない文字の羅列。気が遠くなる程の時間を、ただやり過ごす。痺れはとっくに全身に広がっている。でも、まだ。


噛み締めた口内は鉄の味。やわやわと舐められると、更に切なさが積み重なっていく。脈打つ赤が、吸われて、あがった呼吸に悲鳴が溶けていった。




   *




「愛情なんて迷惑なだけよ」

いつもよりワントーンは低い声。不意に落とされ、咬まれた耳のせいで這うような広がりを見せる。


「………っ……え……?」


散らばった熱が、江利子の触れる一点に収束するかのよう。ぞくりと駆けあがる、悪寒と、それとは異なった何か。
蓉子が目を向けても江利子は見えない。聴覚ごと、器官が、食べられて行く。
細かな息の塊は言葉の断片にすらなりはせずに。吐き出され、押し上げられて、周囲の熱と同化する。
くすり。江利子の笑みも、また。


「優しいだけのことばなんていらないわ」


落とされる低音はどこまでも深い。本能が、これは本気だと肯定の警告を発する。焼き切れそうな意識の中に響き渡る。


「…いゃ……な、…んっ……」


感じた震えは蓉子のものなのか、江利子のものなのか。


「………ねぇ?」


溺れて埋没していく理性の他に、妙に冴えた部分があった。過敏な体の触れられているところと、それから説明のつかない何処か。いつもは巧妙に隠れた感情が無理矢理引き摺り出される。塞がれた口から漏れた蓉子の呻き声は、確かに、嬌声とは違うもので。


「ぃ……あぁ……!」


酩酊が苦痛に変わる頃。蓉子の瞼に唇の感触がした。恐怖を喚起させない、今日唯一の江利子の痕跡。何故か、
無性に、



哀しくなった。



その感情は次の目覚めの後も蓉子の中に長く尾を引き摺った。

その感情だけが、蓉子の中で長く尾を引き摺っていた。




   *



「……優し、過ぎるのよ…」

有り得ないことを願うのは、痛みしかもたらし得ないのだろうか。
貪欲に求めた名残が静かに走る。


呟きが、布団に埋もれて消えた。















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