くちなし
うっかり早く目が覚めた。なんて珍しい、と自分でおかしくなって、なんだかよく分からないハイな気持ちのまま、布団をはねのけて起き上がった。わずかに身を動かした隣の蓉子に慌てて上掛けをかける。夏風邪でもひかれちゃたまらない。寝乱れたパジャマ、というか、私が昨夜適当に着せてそのままにしてしまったというか、の淡い桃色が目に優しい。意識が無い人って重たいんだよね、とか言ってみてもじゃあ意識を飛ばさないで、なんて拗ねられるんだろうなあ。
それだって本当は嬉しいくせにね、とぴんとおでこを弾く。眉間に皺が寄って、それでも起きない蓉子、ちょっと無理させすぎちゃったかなあ、とこっそり反省。週末が終わるのが名残惜しくて、日中も食後も風呂あがりもべたべたと甘えた結果、連日になってしまった、日付もうっかり越してしまった。今日の嫌味はどんな感じだろうか。それすらも楽しみな私はもうすっかり蓉子に夢中で。
そうだ朝ごはん作ろう、と唐突に思いついて、私はベッドからぽんと降りる。蓉子の傍を離れるのも、蓉子のためなら勿論平気。偉いでしょ、とまだ夢の中の蓉子に自慢。ばかね、っていう甘い叱咤が、私は大好きだから。例え返してくれなくっても想像だけで嬉しくて笑う。ああ本当にばかだなって自分でも思う。だけどこんな自分は意外とそんなに嫌じゃないんだ。
昨夜蓉子が使ってたエプロンを拝借して、炊飯器の中身を確認する。椅子の背にかけられ洗い損ねられていた深い緑のエプロン、なんとなくあの制服を思い出す、っていうのは実は蓉子自身が前に言ってた。殆ど残ってないお釜の中に首を傾げて、あー後片づけの前に襲っちゃったからか、とようやく納得。蓉子が洗い忘れなんて珍しいと思ったしね。ちらと見るとキッチンには待ちぼうけてる茶碗や角皿がずらり。まずはこいつらを片づけるところから始めますか。
腕捲りして、手際良く。やればできるのにどうしてやらないの、と怒る蓉子に、その顔が好きだからって言ったら、暫く口もきいてくれなかった。あの時の洗い物地獄より遥かに楽だし気分も良い。あれからきっちり当番制になった、本当は今日は蓉子だけど、喜ぶ顔が見たいから約束違反。今度は多分、笑ってくれる。洗ったボウルに水を張って、サニーレタスとカイワレの葉。
刻もうかな、と包丁を手に取って、そのままうーんと考えこむ。いいや葉っぱは千切ってしまおう。なんかその方が愛情が籠められそう。ばらばらで不揃いで、でも蓉子のことだけ考えて動いた指先。私の朝食? そんなの勿論おまけっていうか蓉子に安心してもらうためのものさ!
にへへ、と我ながら変な笑みが漏れ、スタッカートの効いた鼻唄が乱れる。気にしないし問題もない、蓉子のはにかんだ顔だけで充分お釣りが来る早起きと朝の支度。
彩りにトマトを散らして、ふたつの丸皿。大皿からふたりでつつくと、私が好きなものしか食べないって蓉子が文句を言ったから。だけど奥の方の皿はこっそりカイワレ減量仕様。あんまり刺激的な香菜とか、蓉子得意じゃないもんね?
野菜しか切っていないから、ざっと洗っただけの調理器具。水切りかごにまとめて伏せて、ああ珈琲はどうしようかな、なんて手を拭きながら考えて。蓉子も飲むかな、飲むならいつものブレンドにしておこうかな。夏だし冷たい麦茶の方が良い、って言われちゃうかな。
2人分淹れてしまえば蓉子は何も言わずに自分のを受け取ってくれるんだろうけど、わがままにもならない蓉子の小さな意思を、できる限り尊重してあげたい、って思うから。私だって蓉子を喜ばせたい。私の些細な好みすらすぐに覚えて反映させてくれる蓉子のご飯に笑顔で返すだけじゃなくて。
ばた、と隣の部屋の扉が開く音がした。タイミングの良さに私は嬉しくなって、いそいそとお皿をテーブルに並べる。ちょっぴり焦げちゃった方のトーストを自分の方に置いて、マーガリンの残量を確認する。
あとはおはよう、を待つだけの朝。
*
「あ、おはよー」
「……おはよう、聖」
焦燥と不安に突き動かされていた力が抜けると意外と日常に近くなるものだ、と朝の挨拶を思わず普通に返しながら私は思った。
「朝はトーストとサラダだけど、蓉子は珈琲要る?」
目の前の聖をまじまじと見る。確かに彼女は私の恋人の佐藤聖で、昨日おやすみって笑顔で言った時そのままの機嫌で私に話しかけてくる。
「……どうして」
血と共に上がった息を強引に戻したツケが今更出てきた身体は地に着いたはずの足を随分と頼りなくして。
「ん? 要らない? 牛乳で割って飲むー?」
相変わらずのんびりしたままの聖の方へ歩を進めることもできやしない。
「じゃなくて、どうしてこんなに早いのよ!」
いつもいつも、特別夜更かししているわけじゃない日だってぎりぎりまで起きてこないじゃない。
「いけなかった?」
「違うわ! はぐらかさないで!」
だって、だって。
「朝から元気だねえ」
「聖……!」
……あなた、が、また。
「あーはいはい。 別に特別な意味はないけど」
いつもぐずぐずと中々起きない聖が、台所で朝ごはんを作るために布団から出たなんて、誰が信じられるっていうの?
「なーんとなく目が覚めちゃったからさ。 これは蓉子を喜ばせるしかない! と思いましてね」
……本当、に?
「……聖」
「んー?
……わ、」
かくん、と安堵で本当に抜けそうになった足を無理矢理動かして、聖の前へ、まるで吸い寄せられるかのように。
「……心配、したのよ」
「え、えぇ? どして? あ、包丁で指は切ってないよ?」
両手を目の前で開いて私に見せる、聖。 でもそんなことされちゃ表情が隠れてしまうし、キス、もできないの。
「だって、聖がいなかったんだもの」
肩に押しつけた頭はさっきとは真逆の意味で血がのぼって熱い。
「……蓉子」
驚いた聖が落ち着いてそれから私を抱きしめてくれる過程を立ったままゆっくりと感じ続ける。
「……だって、また、」
ああ、朝からみっともなく、泣いてしまいそう。
「……ごめんね、蓉子」
耳元に次々に落ちてくる聖の声音はとても優しくて暖かくてそれが私に向けられていることに私はまだ慣れていなくて。
こぼれそうな涙を聖のTシャツで乱暴に拭って私は深呼吸を繰り返した。意識的な呼吸で、できる限りの聖を感じようと。
*
「……ごめんね」
聖の声が、暖かい。
冷房の代わりに開け放った窓から、生ぬるい風の入る部屋の中で、優しく私の髪をすく聖の存在が、暖かい。
「……聖」
私の熱い頬を押しつけると、聖は全身を優しく抱きしめてくれる。今度こそ膝の力が抜けた私に合わせて、床に座りこんで、不安定な私を抱える。素肌に木板の冷たさが気持ち良い、だけど聖の服のざらりとした感触が、力強い腕の熱が、私に囁く声の優しさが、それ以上に、とんでもなく心地良い。
「……朝ごはん、冷めちゃうわ」
それでも私の理性は朝っぱらから聖に甘えて腕の中で安堵の息を漏らすことに眉を潜める。全身が心地よさを享受しているのに、しているからこそ、なんとかしてストップをかけようとする、臆病な私の一部分。
「今日のメニューに、冷めそうなものは別にないけど?」
くくっと、本当におかしそうに。間違いなくからかわれている、聖はこの状況を面白がりはじめている。どうして彼女はこうなのだろう。私はいつもいつも振り回されて。
「だって、コー、ヒー……」
……ああ我ながらなんとも下手な言い訳だわ。
「蓉子が飲むかわかんなかったからまだ淹れてないんだよねえ」
欲しい? と、甘く囁くその声に身体が震えた。
絶対わかってやっている、口調を似せているのも耳に吹き入れるように話すのも、こっそり片手で顎を固定しているのも。
私が恥ずかしがって、狼狽えるのを目を細めて楽しんでいる、趣味の悪い恋人。
「……要らない」
だから、というわけでもないけれど、意趣返しにもならない反抗はせめて。
「だって、今日はもう聖でいっぱいだもの」
においも、気持ちも、感触さえたくさんもらって、満たされていて。
これ以上聖をねだったらただの欲張りだわ。今は嬉しさが増すだけかもしれないけど慣れてしまったらこれから困るじゃないの。
「……ふうん」
腰と背中を覆っていた左手まで顔を固定するのに使われて。
至近距離の聖、朝陽の下で、見るなんて滅多になくて、彼女はなんだかとてもきらきらとしていて。起きたばかりで元気だからか光源の問題か単に私の心情から出た錯覚か。最後だったら恥ずかしいことこの上ない。
「蓉子は私の珈琲、いつもそんな風に思ってたんだ」
そーか嬉しいな、と私を固定したまま笑う。
……もしかして私、墓穴、掘った?
「な……!」
違わない、違わないんだけど。だから否定の言葉が出なくて私は口をぱくぱくさせるしかないんだけど。
顔が更に熱くなる。上昇させられる体温の果てがなくて怖い。顔はできないからせめてと視線を逸らそうとすると逸らした側から覗き込まれる。嬉しそうな笑顔が憎い。なんでそんなに私の失言で舞い上がってくれちゃってるのよ!
「じゃ、残念だけど」
一体何がよ……!
断言してもいい、ろくなことを考えているわけがない緩んだ顔。身を捩って逃げ出そうとすると首筋に息が吹きかけられ身体が一瞬にして竦む。待って、平日の朝一番からこれは、さすがに。
「今日は私お手製の朝ごはんだけで我慢してね?」
サラダはちょっと頑張ったから、と自慢気に無邪気に笑う。誉められたがる子犬みたい、だけどこんな状態に人を押さえつけておいてそんな台詞を吐かれて、騙されないわよ。
「ね?」
だめ押しの笑顔。変なところで凝り性な聖は朝からドレッシング自作、なんてことも平気でやり出す。どこをどう頑張ったのは知らないけれど、きっと私好みにおいしい料理を並べて、聖はこのやりとりを脳内に甦らせては狼狽える私を笑いながら朝食をとるつもりなのだ。そうに決まっている。
「……っ」
ちゅ、と掠めるように唇の端ぎりぎりに落とされたキスを最後に、あっさりと離れた聖を私は反射的に見上げる。押さえた口元の、息が荒いのは気のせいだと、きっとこの感触すら思い出してままならない朝食の予感を振り払ってゆっくりと立ち上がる。
追い討ちまでかけて、私で楽しむつもりの恋人の背中を、悔し紛れに睨みつけながら。
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