「それが心だ」








きっと寂しいだけ、なのだ。



私のぬくもりがやさしいのかは知らない。切なそうに目を細める仕草、その先の感情も、勿論、汲み取ることは叶わない。私を抱きしめる手は震えていた。まるですがりついているかのよう。陳腐な表現はどこかで聞いたことのあるフレーズで、私たちは上辺では確かに三文小説の筋書きをなぞっている。空回りする数々の描写は、少なくとも私の中から沸いて出たものではなかった。誰かが勝手に私たちを型にはめていく。親友という鋳型から溢れた部分を否定し、小娘だと笑い、自分の常識を誇らしげにかざす。反発する気がないのが私で、その気力が残っていないのが聖だった。数年前と違ってこの関係が崩れていかない理由は、多分、そういうこと。


離れるのが怖い、と聖はいう。彼女がいうほど私たちは深く結ばれてはいない。時折触れてくる指先の揺れに私は気づかないふりをする。ひんやりとする一本を取って口に含めば甘やかな味がすることも知ってはいるけれど、抱きしめられるのはいつも後ろからだから。今はそれでいいと思っていた。彼女にはきっと冷たい指先だけで私の肌の温度や心臓の鼓動を知ることが必要で、気が済むまでやらせてやろうと決めていた。


砂と水だけで作られたかのような決心は、時にぱさぱさと削れ、或いはくらりと揺れる。理詰めではロジックしか解けない。自分でも持て余す感情を聖に押しつけることなんて、出来ない。


寂しいんでしょう? いつも聖に心で問いかけていた疑問を、江利子に言われ、私は暫く真っ白になった。忘れていた呼吸のせいで脳の酸素が欠乏する。脈動が耳の上から聞こえたと思ったら開けた視界には嘘みたいに青い空が広がっていた。雲がひとつもない一色は、随分と空疎に感じるものだと、初めて知った。


彼女の暖かさは私の上をするりと流れて行った。首を振る所作に、何の意義も見いだせずに、ただ抵抗の真似事を繰り返した。あなたは見失わないのよ? 低く囁かれた後、現れた聖は、どちらかというと私に捕まえられにきたといった感じだった。安堵によって吐き出された空気の塊は私の間近で弾けて消えた。熱い吐息。熱い、滴。


思い切りきつく抱かれ、私の両腕は身動きが取れなかった。そういえば初めて正面から捕らえられたと、頭の片隅が感想をもらす。感想でしかなかった。それだけでは何も、そう何も変わらなかった。


まだ見つけてもいないのに見失うなんて器用な真似は不可能だ。


否定ばかりを積もらせて、それでも聖を手放すことはしたくないから、目の前の透明な筋をひとつ、そっと舐めとる。恋人の涙が甘いなんて書いたのは誰だったか、その陶酔は醒めた私の感覚には起き得なかった。ぎゅうと押さえつける聖の握力も、頬をくすぐる柔らかい髪も、もしかしたら聖の指をしゃぶった時の味も、私の表面を撫でていっているだけなのかもしれない。心臓にまで食い込むような感触が私を襲うのに知らんぷりをしようとして、自分をごまかそうとして、結局私は言葉を紡ぐ。口には出したり出さなかったり。彼女の寂しさが紛れるのならいくらでも愛を囁ける。


彼女の涙のしょっぱさは有り難かった。ゆっくりとたまっていく苦さは何処か心地良かった。視界の端に灰がかった雲が急速に湧き上がり、ああ夕立が来るのかもしれないと、夏の匂いを嗅ぐ。


ずるりと落ちた聖の腕は、汗のせいだと思うことにした。見なくても分かる、ニットの下の赤い跡は、蛇行し微かに息づいている。珍しく私の前を歩こうとする聖の、微かに落とされた肩には、私の存在がずっしりとのしかかっている。


家まで15分の猶予を、私は無意味に転がし続け消費していく。何度も尋ねた問いを今更蒸し返すことはしない。私は彼女を好いている。愛して、いる。


私たちの行いを何と呼べば良い? 跳ね返っては戻ってくる、ただそれだけの感情のやり取りに過ぎないのに。それがもし憎悪であったとしても、私たちは繋がっていたというのだろうか。ため息にもならない呼吸。じっとりと湿気が私を包み込む。


目を細めて眺めてみた聖を、切ないとは感じなかった。この情感のキャッチボールも錯覚なら、私に確かな神経などひとつたりとも備わってはいない。けれど、世界が少しだけ優しい、とは思ってしまった。狭窄して、聖との距離が僅かに縮まる。


それが幸せなのか、判別は付かなかった。ざあ、と音を立てて雨が落ちてくる。徒歩でも後数分の道のりを、聖は走らなかった。一瞬考えて、でも彼女を追い抜かす気分ではないから、と自分に説明をつけて、私も水を被ることにする。聖は驚いた様子で振り返った。最後の交差点なのに、止まってしまった二本の足。


信号は青よ? 白々しい言の葉は私の中に溜まる。濡れきった唇は滑らかだけれど、鉛のように重かった。傘、ないの? 手ぶらの私に代わって無粋な問いかけをした聖は、何故か私よりあたたかかった。いつも冷たい指先は、熱というにはあまりに儚い温度を伝えてきた。誰かの感情のよう。


離れないで、と私は言えなかった。できない代わりに横断歩道に歩を進める。パンプスがつま先まで浸かる。さっき触れられたところに容赦なく雨は降り注ぎ記憶までも押し流す。


聖の視線は多分私のものよりも鋭かった。私はそれを、心地良いと思っているのかも、しれなかった。





















単品で御題。気が向けば続きます。

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