5、自覚











聖に会った。

駅から地下に張り巡らされた、どこか薄ら寒い生物の血管にも似た、いつも変わらない薄い光が漂う地下街の末端。
多分、従業員の通路か何かであろう古ぼけた扉から数えて数ブロックの喫茶店に、いとも自然な空気を纏って珈琲を啜っていた。
初めは、気が付かなかった。あてもなく歩き、その店の前を通り過ぎ程なく行き止まりに辿り着いて。
我に返って途方にくれる。単純迷路では無いのだから、壁伝いに歩いても地上に出られるとは限らない。不意に思って、何を馬鹿なことを、と叱咤する自分の余りの弱さに案内板を眺める気力はみるみる失われていった。
何か、途方も無いものを背負ったか失ったかでもしたかのような足取りで、漸く引き返す。ここに潜り込んだときのやかましい、その分空疎なBGMもここまでは届かない。ゆっくりとアスファルトが朽ちていく響きだけが、ただ。微かに微かに沈んでいく。


かっ


小石が落ちたような音がした。


はっとして顔をあげる。首が音を立てたような気がして手をやれば、湿りかけている襟足に触れた。輪郭をなぞる指。追い付かない思考。うつむいていたことに今更気がつき、それからやっと小石まで考えが及んだ。

所在なげに辺りを見渡す。紙が貼られシャッターの下りた一画、白と黒ばかりが並べられたレディースショップ。寄り添うようにメンズショップもあって、通路を挟んで喫茶店。

かつん
一回り小さな振動を、店のくすんだ硝子が立てていた。
記憶より少しだけ短くなったと思う髪が揺れている。冷房が、効いているのかもしれない。聖は、私に気づかせることで役目は果たしたと言わんばかりに、すぐさま手元に目を落としてしまう。そんなことをされれば、私は、その中に入っていかざるをえないというのに。
けれど焦げた茶色の、細く開かれただけの扉は私には重すぎた。ノブに手を押し付けてもピタリとも動かない。後少し。少しだけ力を込めれば、閉まってしまうはず。
結局その僅かな空間に入る気力すら存在していないのだと認め、私は携帯電話を取り出した。
もたれた壁からも崩れかけていく音が聞こえてくるようで、今ここで埋もれて潰されてしまえば楽だろうかと、ひっそりと息を吐く。
アドレス帳からでもリダイヤルでも無く記憶を直接打ち込む指先。いつもとは違う番号。久しぶりに、最後に通話ボタンに手が伸びた。




江利子にはもう三ヶ月以上会っていない。
ひと月に一度、連絡を取るのはいつの間にか二人の暗黙の了解となっていた。順番に交代で。繋がっていた当時はそれが無性に煩わしかった。しなければならないと分かっていたから鬱陶しくて、丸々ひと月より一日か二日ずらしてからダイヤルを回していた。ボタンは軽くて薄ぺらく感じられた。コールの無機質さ。江利子の応答。何を話したかは殆んど、覚えていない。待ち合わせや約束はメールでしていたし、アポイントメントなど取らなくとも、江利子は当然のように私の家に来た。その癖けして馴染まなかった。

最後に江利子が出ていった後、私は残された書き置きを千切りばらばらにした。完膚無き程に。捨てようとしたら半分は微風に舞って部屋に散在した。
江利子からは逃げられないのかと、捕まえられてもいないのに絶望した。多分、すがりたかったのだ。何にかは分からない。
追い駆けるにも、諦めるにも、私たちは共有しすぎていた。全てを中途にしたままで。






他の一切を省略して歩いていく聖の背中には緩く光が当たっている。
聖は被るように、くるまるようにその光を受けている。似合う、と言ったら怒るだろうか、呆れるだろうか。
多分、どちらでも無い。今と同じように、矢張り全てを省略してしまうのだろう。ただ、笑うのだ。何も映していないままで。

毛細血管の交わりを右折して、聖は足をとめた。頭が肩とぶつかる。触れ合うよりは少しばかり強い、過失的な接触。
ショーウインドーには金や銀の羅紗が、波を描くように飾られていた。


唐突に江利子の、何故だか少し嬉しそうな顔が浮かんだ。
私の前でも、実際にしたかどうか定かではない類の表情。喉が渇いていて、一口だけの水分を口の中で転がすとき、人は恐らくこんな表情になると思う。銀の鎖。直線の中に僅か交じり込んだ曲線。カーブした先に存在していた小さなチャームを摘みあげた江利子の指まで出てきてやっと、私は思い出した。
昔二人で来たことのある、店だった。



どうしたの、蓉子?
呼び掛けは辛うじて届いたけれど、私にはもう何も見えなかった。目ににじむ懺悔、後悔、多分そんなものの結晶を必死で掬いあげる。聖は見えないのに、透明の壁に阻まれた先の店員が、いぶかしんだ視線を投じているのが奇妙にはっきりと分かった。
気づかれた。馬鹿な感情が叫び出す。ずっと昔に買い物をしただけの少女の連れなど覚えている訳が無いし、そもそもあの時と同じ人物なのかも定かでは無いというのに。理性が千切れた。ただ、泣き喚きたかった。


肩に置かれた手に、飛び上がる。漏れそうだった悲鳴をやっとのことで飲み下して、とまっていた空気を吸い込む。困ったような聖が私を捕まえて、いた。


俊巡の後、手は外されることなくそろそろと引き寄せられていく。他人事のようにそれを眺めながら、私はただ浅く呼吸を繰り返していた。不思議と過呼吸に似た息苦しさ。やがて腕と腕が触れ合うような距離。ひとり、一瞬だけ不自然な視線を寄越して私たちの間をすり抜けていった。ここは動いている。末端から少し離れた空間。
聖と並んだ方が、江利子と並んだときよりも恋人らしく見えるのかもしれない。
現実から逃げるための、気休めの思考は全くの逆効果をもたらした。
江利子の笑顔が迫ってくる。令にあげたロザリオを持って。授受の場面では無い。彼女が妹と二人のとき、どんな表情をしているかなんて知らない。私が聖といるとき、何を思っているか誰も知らないように。ただ、覚えのある顔だけが、目まぐるしく移り変わる。聖の手が流し込む。




僅かな光にそれでも落ちる影を見て夜だ、と思う。点在する灯り、非常口の光でさえ急に怖くなる。嫌悪感。誰もいないのにその誰かに見張られている心地。





……江利子
うめくように吐き出された呟きに右肩の温もりが強張るのが分かった。



私は、聖の腕を張りつけたまま呆然と、地面ですらない場所で立ち尽くしていた。












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