わがままを乞う










朝の空気、鳥のさえずり、トーストと珈琲の香り。
夜私が眠ってから帰ってきた蓉子は私が起きる前に目覚め出かけてしまう。







「……蓉子、置いてかないで」

「……」


馬鹿なことをしているってわかってる。久々に会えたのは私が早起きできたから、忙しくて忙しくて顔色すら悪い蓉子の正念場はまだ峠を越えていない。


「お願い、ひとりにしないで」


休まないで、なんて言えない。蓉子が仕事に誇りを持ってるのを知ってるから。だけど台所の食器籠に、濡れた洗面所に、枕のへこみスリッパの移動洗濯されたシャツ靴下ハンカチ、そんなものでしか蓉子がわからなくて、一緒に暮らしてるって実感できなくて。不意に感じる気配を探してさまよってあなたの所有物を痕跡をそっと抱きしめて、顔を近づけて。苦しいよ苦しいのあなただけがいない場所に取り残されるのは。


「……聖」


ごめんなさい、と、それでも誠実に頭を下げ悲しみを浮かべる蓉子を私は直視できなかった。
耳を塞ぐ代わりに下を向いて、涙をこらえて、馬鹿な自分を頭の中で罵りながら一度きりの蓉子の腕と唇の感触を久しぶりに受ける。
すぐいなくなってしまうくせに、と、もう一人の自分はそのときでさえあなたを恨んでいた。







「…っく………うああ……」


さっきからずっと鳴っている。蓉子の好きな歌。さみしげな声で、好きな人の安否を思う、片思いの女の子の一人語り。大切な人を慮る気遣いが気違いに思え私はとうとう耳を塞ぐ。どうして蓉子はこんなのが好きなんだろう。このまま無視したら蓉子はどうするんだろう。

もうすぐお昼休みは終わってしまう。蓉子の焦りが伝わるように、鳴り続ける私の携帯電話。蓉子と繋がってるその塊を踏みつけて壊してしまいたい。蓉子なんか。こんなときに一緒にいてくれない蓉子なんか。


ぷつ、と途切れそして静寂が訪れた。


「あ……」


思わず見つめた時の表情、吐き気がする。蓉子の優しさの名残、部屋に落ちた、私の沈黙。縋る手は空を切り、物欲しげな目つきが虚ろに反射する。ふたりの部屋。私しかいない。

悪寒がせりあがって来て、洗面所に駆け込み一気に吐いた。ひとりきりで取った食事が流れて行く。蓉子の作り置き、解凍され噛み砕かれ呑み込まれ中途半端に消化された、栄養になるはずだったもの。私が受けつけなかった蓉子の愛情。


「よーこ……」


こんな優しさ、欲しくなかった。嬉しいけど、知りたくなかった。こんな幸せは感じたくなかった。涙がぼとぼとと落ちて力なく跳ねた。一体今日何回泣いたのだろう。


“置いてかないで。見捨てないで。ひとりにしないで。”
“私は見捨てないし、勝手に消えたりしないわよ。ずっとそばにいてあげる。”

あなたがひとつずつ私に答えて、順番に約束してくれた、あの時の声を思い出す。会えないのが当たり前で、電話の繋がりで一日中舞い上がれた、もう何年も前の私。今なんてもっとずっと恵まれている、蓉子は約束を反故になんかしていない。

理解とは、別のところで、叫び声がする。無言の携帯電話を握りしめる。人は慟哭と呼ぶのかもしれない、衝動は握り潰す勢いで負荷をかける。不在着信と伝言保存を伝える淡い点滅が憎い。蓉子を出してよ。足跡なんて機械で歪められた声なんて私に謝るだけの蓉子なんて要らないから。

汗で滑って床に落ちた蓉子の思いが、乾いた音を立てた。
壊れるなら壊れてしまえば良い、私の苦しみを蓉子だって思い知れば良い。
投げやりに思いながら、蓉子の心情は立場は思いは知っていながら私はちゃちなストラップを掴み投げつける。
耳を塞ぐには間に合わず壁にぶつかる悲鳴ががしゃん、と響いた。









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