run







波の端が、広がる。



うんざりするくらい延々と続く坂を上って、突然開けた視界にはブルーがどこまでも揺れていた。多分近づいてみたらそんなには綺麗じゃ無いのだろうけれど、なんだか凄く触りたくなってしまって思わず駆け出した。転がり落ちるように向かっていく。後ろでは志摩子さんが何か叫んでいて、ああ珍しいな、でも笑ってるな、とか思いながらひたすら走った。すぐにあがってしまう息もこの海には必要不可欠な気がしてきて、脇腹が痛くなったのは笑ったせいか走ったせいか分からなくなるくらいだった。


水は上から見た程じゃないけど、想像していたよりはずっと澄んでいた。さっきは気が付かなかった、小さな姉弟が泳いでいる姿が見え隠れしている。山みたいな砂の城につまづきかけて、それから後ろを振り返った。ふわふわの髪は風の流れを丁寧に具現化していて、志摩子さんはやっぱり笑いながら歩いて来る。その様子が、走りかけて諦めたみたいにどことなく見えておかしかった。気持ちよく掲げられた手に、大きくおおいと振り返す。ふたりきり。何を遠慮することもない。何しろ、私は志摩子さんが大好きなのだ。


漸く追い付いた志摩子さんは私を見て、それから海を見て、目を細めた。全てを肯定してくれたみたいで嬉しい。日の光は平等に降っているのに私よりずっと白い志摩子さんの肌は、この場所に似合わないようでいて、とても良く似合っていた。



「ふふ……どうしたの?乃梨子」

志摩子さんはまだ笑っている。一度始まると中々止まらないのは知ってるけれど、坂を降りてる途中、ずっと笑ってたのかなと少し考えてしまった。でも志摩子さんはあまりに楽しそうだったから、それならそれで勿論構わないのだ。さくりと足元が鳴る。夏の音。



「この水に、急に触ってみたくなってさ」

だってたぷんと胸がいっぱいになってしまったら、もうどうしようも無かったのだ。実をいうとザバンとそのまま飛び込みたかったくらい。替えの服は持ってないから無意識の内に足は止まって、それからは色々なものを眺めていた。どこもかしこも照らされている。ザザンザザンという響きが鼓膜を震わせてふたりの間を通り過ぎていった。



「そう、いいわね。冷たかった?」

波と違って、志摩子さんの声は耳の中まで沁みていく。透過してるなあ、なんてしみじみ感じて、頭に到達するまでちょっとだけ間があって、それから。


私は方向転換してもう一度走り出す。切る風は涼しくは無いけれどとても優しい。靴と靴下を波打ち際の三歩前に放り出して、今度は躊躇なく突っ切った。剥き出しの肌が海水に埋もれていく。
ジャパンと遠くでしぶきがあがっている。小さな足が水面に飛び出してすぐに消える。波紋の先を覗き込めば白い砂地。さらさらと動き続けてまるで誘われているかのよう。
立ち上がると、志摩子さんは私の靴の側にいた。さっきの所からふたり分の足跡が点々と付いていて、走ってる分私の方が幅が広くて、でもちゃんと並んでるみたいで。片方ひっくり返ったスニーカーがそっと上向きにされる。じっと見つめてる自分にふと気がついて、恥ずかしいとは少し違うのだけれど、このまま後ろ向きに倒れ込みたい気分になってしまった。




「夏だね、志摩子さん」

「そうね」



「こんなに澄んでるのに、塩辛いんだよね」

「塩辛くても甘くても、水は澄んでるわよ」



「……乃梨子、しぶきがかかるわ」

「あははっ」




次々通り過ぎていく波も風も会話も凄く気持ちが良かった。志摩子さんといなくてもこの海が素敵なことに代わりはないけど、志摩子さんがいるから楽しさが倍増していることは間違いがない。結局乗るはずだったバスはとっくに行ってしまって、その次のもいなくて、更にその次には30分以上間があった。JRの駅まで歩いていこうという提案に賛成して、ずっとつかっててふやけてしまったような足を動かしていく。


不意に微笑まれて右手を握られて、温もりが離れたら小さな貝殻が降ってきた。悪戯っぽく、でも少し恥ずかしそうに。横顔は手の中の貝殻みたいに薄い桃色で、志摩子さんの頬に触る代わりに私は手の平の中身を撫でた。ザラリとしていてさっきまでの砂みたいだった。口に含めば多分塩辛くて、繊細に割れていく。ティッシュに包んでからしまおうとして、鞄が無いことに気がついて。慌てて横を見たら志摩子さんは当然のように私の荷物を持っていた。そういえば、坂の上に置いてきてしまった記憶がある。


「ごめんっ!」

手を合わせると貝殻は割れてしまいそうだったから。頭を下げる方に切り替えて鞄を掴み取る。ついでにまとめて志摩子さんのも引っ張って、引ったくりよろしく駆け出した。足はだるいけれど、平気。弾む息はおかしそうに私の周りで跳ねていた。


曲がり角で、立ち止まる。昔やった荷物持ちゲームみたいだ。私は負けるといつも走って、先回りして待っていた。ただ、そうしたかったのだ。どうしてかなんて思い出せない。
志摩子さんはまた静かに笑顔を作っていて、ここからは少しだけさっきの名残が見えた。子供たちはまだ遊んでいるのだろうか。分からないけど、波は音を立てて彼らといるような気がする。浮き出た汗を拭って、乾いた唇を舐めてみたら塩辛かった。





夏だな。
思ったら青と波の端がまた広がった。























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