ばし、と頬を叩かれた。覚悟してたから衝撃は少なかったし、目に涙を溜めたその子に次はカクテルをぶっかけられるかな、とも思ってたからそのまま勢い良く店を飛び出していってくれたのには正直感謝した。まあ勘定はまとめて私持ちになったけど。心配するより呆れ顔のマスターに苦笑いを返して、騒がせちゃったことを謝って、中途半端に星がまたたいてる外に出る。夜風が冷たい。左頬にひりひりと沁みる。
ぼんやりと下膨れの月を眺めた。悲しくはないけど寂しくて、喧騒はごめんだけど人恋しかった。
嗚呼。
蓉子を思い出すのは、いつもこんな時だ。
方舟
「振られちゃった」
ふらりと向かう蓉子の家。あたたかくて厳しくて優しい。
「彼女ひとりとくらい、ちゃんと付き合ってあげなさいよ」
「付き合って、たのかな」
「付き合ってないのに彼女がいるの?」
夜中、突然の来客に眉を顰めるのを隠そうともせずに。それでも無下に叩き出すことも勿論しない、蓉子は私をため息で許した。いつも通り、安心して、ちくりと胸が痛む。彼女の表情の裏側に見ないふりをし続ける私。
「告白はされたけど」
「それであなたが頷いたなら彼女でしょう」
「でもすぐに愛想尽かされちゃった」
「振られるようなことばっかしてるからよ」
「違うよ、私が振ったの」
「支離滅裂ね」
「酔ってるから」
はあ、とお決まりのため息をもうひとつついて、それでもう許してくれる蓉子はどこまでも優しい。もう寝なさい、と言われ、おとなしく従えるのは彼女だけだ。いやお姉さまを入れるならふたりか。でもあの方とは多分もう会わないから。腐れ縁の親友、に甘えて甘えて迷惑をかける、私は果たして多少なりともあの頃から成長しているのだろうか。周りを傷つけてそして傷つかずにはいられなかった、あの頃から。
少なくとも、今の私自身はさほど傷ついてはいない。
確認は自嘲になって、眉をあげた蓉子が私の頭にそっと手を乗せた。熱をはかる母親のような、やりとりが額よりも少し上で行われている。感覚神経を持たない髪が暖められて行く。
「頬、腫れてるわよ」
続いてあてられた肌が冷たさを感じて心地よい。髪は暖められたのに頬は冷やされる、魔法の手だね、だとは恥ずかしくて言えない。冷え性なのよ、とか、氷は要る? とか、既知のことを口に乗せる蓉子に、知ってるよ、も、要らない、も目だけで返せる程度には私たちは互いを知ってるから。大事な感情に蓋がされていても、或いはそれが欠落していても、うまくやっていける仲。やっていかなければいけない仲。
ふあ、と漏れたのは欠伸。安心感が降り積もる土壌は、生暖かいままに不安定で、その奇妙さを呑み込んで私は眠る支度を始める。するりと隣に潜り込む蓉子の温度が、溶ける前に確りとふたりの場所を分ける。甘やかす必要は無いと判断したのか、抱きしめてくれもしない。
でもそれが私にひどく安らぎをくれる。
だからまだ今は、ただ、それに甘えて。
「おやすみなさい、聖」
優しい蓉子の囁きが、耳に落ちた、久しぶりの夜に身を委ねた。
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