聖蓉











秋のにおいがした。


ゆるくかみついた蓉子の肌の上を、冷たい風が吹き過ぎていった。寝苦しい夜は幾日か前に去り、いつの間にか寝室に忍びこんでいる乾いた空気。季節って寝室から変わると思わない? いつかそう言って、彼女を困らせたことを思い出す。


鎖骨まで唇がたどり着くと、蓉子の目は閉じられてしまう。整ったまつげの上を、何かが行き過ぎていくかのように震えている。闇の中で、感じるのはきっと私だけ。目をあけている私だって、蓉子だけなのだから。きっと、私だけ。


指を伸ばして、耳を覆う。そのまま引き寄せて、舌を一気に滑り込ませる。小さく開かれた口元へ。鼻を抜ける吐息は蓉子の耳元にたまっていく。じゃれつくような触れ合い。でも、簡単には離さない。


浮いた蓉子の背が、だんだん辛そうにそっていく。飴を舐めるみたいに音を立てる。部屋の窓は空いている。気にしているのかいないのか、微かに揺れる漏れる声。我慢している。少しずつ少しずつ崩していってあげようと、ペースをあげない私。蓉子は自分の内側から狂っていくことになる。涙が出ないぎりぎりで、私は手を離す。



睨む目つきは誘っていた。伸ばされ縋られたままの腕が、それを証明していた。








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関係は? と聞かれ戸惑ったことがある。あの、警戒と嫉妬の混ざった、煮詰めすぎ焦げついた視線で見つめられ、尋ねられた。どこか屈折した日差し、そんな錯覚が私をぼうっとさせる。

聖は彼女に何を囁いたのだろう。甘い癖フランクな口調は、適度に酔わせ惑わせるには良い媚薬だ。知らず知らず溺れていく。聖が途中で手を引いたことにも気づかずに。ゆっくりと侵された後、微かに、他の女の存在を嗅ぐ、のだそうだ。

馬鹿じゃない、と思う。私自身、鋭い目つきに幾度刺されたか分からない。聖は他人を巻き込むべきではないのだ。苦しい時ばらまくのはきっともっと自分を追い詰めるための毒。姿だけは優しい美しい花々。

嘘はつかないことに決めている。正直に、告げることもある。ぽろぽろと泣かれても、激昂されても、私にはどうすることも出来ない。一緒に住んでいる時点で多分おぼろげに分かるだろう疑念が、晴らされるだけだ。聖が私のどこを好いているかなど知らない。分かるのは、私が一緒に生きていきたい相手は聖であるということ。それだけ。









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「あら、優しいのね」


珍しい、と笑う蓉子は少しだけ花のようだ。少しだけ、というのには自分の複雑な感情がそれこそ山ほど込められていて、公衆の面前で思わず抱きしめたくなるくらいに自分の制御が利かなくなるのが分かるから敢えて口に出したりはしない。思いの起伏は緩やかでそのくせどこまでも続いていく。細い線になって張り詰めて緩んでそれでも途切れない。だから手を握ってたくなるんだ、ここがどこであったって。自分を繋ぎ止めていてくれるように。私の一番傍に、いつもいてくれるように。


「失礼だなあ、」


私はいつでも優しいでしょ?


かつて深緑を纏っていた頃良く後輩をからかっていたのにそっくりな口調で。おどけて、それも明らかに嘘だと言わんばかりの表情で。嘘だって気づかれても、本音が分からなければ良い。こちらを窺う表情だって、微かに笑みが溶かされているなら、とても好きなのだ。チョコレイトのような甘さ。ミルクかビターかの匙加減が、手を繋ぐかの分かれ道。差し出した私のそれは蓉子のに絡みつく。柔らかく温かく、私を思い上がらせていく。


もう、と拗ねてみせる彼女が隣にいる。それだけで、沸き立つ衝動をなんて表現しよう?


キーをさしたままの車は、アイドリングしっぱなしだけど暫くお預け。代わりに背もたれにさせてもらって、もう一度ぎゅっと右手を握りしめる。

ただゆっくりと、緩やかな起伏を押しのぼる、午後。










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目が覚めた。気配で覚醒した、と言っても良いかもしれない。あ、起きた。まだぼんやりとする視線の先、聖は笑っている。すぐ近くにはティーカップ。珍しい、浮かんだ感情は記憶に否定された。まだお姉さま方がいらっしゃった頃、聖はよく白薔薇さまと同じ紅茶を飲んでいた。

記憶に残る生成が溶けた色は、ゆるゆると聖の手をあたためている。その事実を、押し当てられて額から、じわりじわりと伝えられる。髪を撫でる仕草。紅茶の熱が逃げた後も聖の手はあたたかかった。寝てたのにつめたい、と彼女は笑う。心底おかしそうに。

そんなことない、と意味のないあらがいをしてみたくなるような空気は、吸い込むたびに私を焦がした。片手を私の後頭部に差し入れたまま、もう片方でティーカップを持ち上げる聖は、どこからしくなく見えた。それは私が、らしくなくうつ伏せかけたまま彼女を見上げているからかもしれない。急勾配なアングルまでが、私の鼓動を勝手にはやめる。触れられているのは髪なのに、心臓の音を聞かれているみたいな気に、なる。

とくり、再び目を閉じる。身を委ねた訳ではない。私は聖と一点でしか繋がってないし、多分この椅子と椅子との間の空間分抱き寄せられるなんてこともない。少しづつ聖の手は温度を下げ、私の体温に浸かっていくのだ。或いは秋口の部屋への飛散。私が好きな、このかさついた、落ち葉の気配に似た空間へ。

乾いた唇は聖の名を呼べなかった。恐らく最後のひとくちが彼女の喉を通っていって、聖の手の平はそっと離れた。水を流す音。さあさあと、真っ暗な中でカップを洗う聖。姿がぼうと浮かび、勿論その像は蛇口を再度ひねられれば消え去っていく。手を拭くこともなく歩いてきて、私の後ろに立っている聖。その予感は確信に変わる。

らしくないのはやっぱり私なのかもしれない。私の好きな聖が、私にもう一度手を伸ばす気配がする。

もう眠りには落ちられそうになかった。それなのに眠る直前のあの狂おしい幸福がある。目の前には全てを預けることが許されるかのような優しさ。真綿に包まれた針のような、鋭いのか鈍磨しているのか分からない神経が、それを掴み取ることを放棄する。とろりと広がっていく熱が、私を包みこもうとする。

飲まれるように受け入れた聖の腕は、まだほんの少し私よりあたたかだった。










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脳裏を光が明滅している。同時に視界は白く濁っていき、そのコントラストに私の感覚は、触覚ばかりが育っていく。口の端を溢れ頬から首筋にまで伝う液体が、冷える間もなく幾つもの道を作る。時折拭う聖の指の感触がいつまでも残り、下がることを許されない熱が耳元を痺れさせる。はっきりと聞こえるのは粘ついた水音。それから、聖の声。


「ねえ、蓉子」


承諾も拒絶も出来なかった。頷くには、聖の与えようとする快感は強すぎた。もう自分が何者かも分からないくらいで、聖の存在がこれ以上膨らむのは幸せより寧ろ恐怖に近かった。けれど拒絶しなかったのは、きっと。体と心のずっと奥底では、それを望んでいたから。

頭の中には事実しか並ばない。思考を通さずに伝わる揺さぶりは私をのけぞらす。


ふ、と笑いに似た振動。軽く咬まれ聖の頭を押しのけようとした私の手は届かなかった。シーツを掴めなくなって、くい込む自分の爪は、聖のものより丸い。好き勝手に突く彼女の指は、柔らかでも融通が効かない。関節が引っかかる。私の悲鳴のように。


「っ……ぅ……」


そろそろ懇願も枯れていった。潤いは溢れ続ける癖、喉がひうと音を漏らす。右手をとられた感覚、こじ開けられた先を舐められ沁みる疼きが声帯を揺らす。頭に響く余計な刺激。動いたままの聖の右手は、少しの間私を宥めまた奔放さを取り戻す。


貪欲な私の肉体は、律儀にも全てを受け止めてしまう。ずくずくと立つ震えは止まらずに、ただただ真芯を突き抜ける。もう朧気にしか見えない聖に縋る。きっと口角が上げられた。吹きつけられる呼気が一瞬遠ざかりそれから訪れるのは。


「――……!」


もう無理、と思った。多分最後の理性で。情欲を色濃く宿す聖の瞳の奥には確かに、まだ私をいたわる気配があるというのに。

狂ってしまうのはいつも私の方が早い。舌で弾かれ咄嗟に握り締める聖の左手。微かなうめき声が、私のすぐ近くで、した。









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蓉子が愛しいです。



















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