平日の公園に、ふたり。



静物画デッサンがしたい、と蓉子を連れ出した。否定するわけじゃない、けれど必ず理由を聞いてくる彼女に説明をする意志もなく。蓉子といられるならどこでもいい、本当は人物画を描きたいのだけど? 歯の浮くような台詞。私だったらきっと醒める。いや蓉子に言われたなら平静ではいられないだろう。蓉子も同じなのだろうか。ただの私の願望を押し込め矢継ぎ早に色々思ったところで気を抜いていた蓉子のボタンに手をかける。だから人物画って言ったじゃない。え、外行く? それならどうせ着替えるんでしょ。問題無いわね。


いつもなら私が勝ち抜くのだけれど手を引いたのは、蓉子と出掛けたかったからが半分。蓉子が少し本気だったのと、デッサン課題の提出日が明日なのが残り。洗濯機入れといて、とそのまま私の手に残された上半分だけの寝間着を、畳み出して途中でやめて。蓉子が抵抗してきたのも、私と外出したかったから、だったらいいのに。うっすら紅く染まっていた先程のアップ。あれは恥ずかしいからだ。分かってしまうのはいつも見慣れているから。事実に苦笑する。私の愛情はどうやら少しばかり歪んでいる。自覚したところで変えられないし変える気もまあないのだけれど。










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くすくすとこどもみたいに笑う蓉子が、私は一番好きかもしれない。信じられないほどの無邪気さが覗く、幼い表情。笑うこと自体中々してくれない、だからだろうか。


そもそも泣き顔も苦痛に耐える姿ももう見飽きてしまったのだ。儚い微笑みの奥では、鋭い爪が引っ掻き回していた。気丈にあろうとして私の手を握りしめる、その繋がりはけして外から分かりはしない。隠すことばかりうまくなって、うまくなったようでいて、精神を削り続けている彼女。蓉子の震えは指の先から伝わってくる。


つまらない日常の内で覚えている話をする。静かになるとすぐ沈鬱な表情になるから、私には有り得ないくらいの饒舌さで話しかける。手を動かしながら、それは鉛筆を握っている時も蓉子の髪を梳いている時もあるが、とにかく。一番喜ばせるのは思い出話だと知っているけれど、過去には限りがあるから、そういつも使ってはいられない。そうね、と顔をほころばせる、その瞬間を写しとれたら、と画用紙に蓉子の黒い線を増やしながら。でも私だけのものでいい、とも思うのだ。現状を慰めながら、現状に僅かな満足感を抱いている私。


今日はレポートがあるから、と机に向かう彼女の髪を弄んで。仕方ないわね、と抱きつかれふわ、と笑う、そのあどけなさが。私を柄にもなく優しくさせるのだ。どうせろくに進んでなかったじゃない、とは心の中だけの呟き。口実を必要とする彼女の後押しをして、擦り寄ってくる体躯を縫い止める。くすぐったさに楽しげな声をあげるから、幸せなのだろうと勘違いしてしまいそうになる。蓉子にとっては夢の世界なのだ。甘いお菓子を頬張って、思うままに振る舞って。大人になれば、現実の幸福を得れば忘れてしまう、束の間の楽園。あの、乙女の園とさえ揶揄される母校にも似た。


疲れた心を休めたくて、縋ってこられるのが、嫌な訳じゃない。彼女か彼女のいる空間が描かれたスケッチブックばかりがたまっていくのも、とっくに受け入れている。蓉子が声をあげて笑うのがリリアンの、特に山百合会時代の話題ばかりなのは、少し悔しいけれど、それすらももう。


どちらが先に、諦めるのかしら?


どちらの代償が先に駄目になるのか、と、無邪気なだけの微笑みを前にして、額に唇をつけながら。壊れない程度に抱きしめる、腕の中の蓉子に囁きかけてみる。訝しげな視線、よりはきょとんとした顔つきを。笑顔に近い笑顔を、どうか、私に。










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気休めなどいらなかった。深く深く染み入っていく、ふたりの境はそれでもくっきりとしている。私は溺れられない。沈んでいく時も、そのまま、抵抗はしない。あっさり突き飛ばされた蓉子も同じなのかもしれない。聡明な、人によっては怜悧な瞳が潤み焦点がぼやけていくのにさして時間はかからなかった。良くも悪くも私たちは親友だ。直感も蓉子の反応の良さも手伝って、拍子抜けするほど簡単に物事は進んで行った。正しい手順、そんな物が存在するのかは知らない。敢えていうなら会話が無かった。意思疎通は多分必要が無かった。
私の、希望的観測に過ぎないのかもしれないけれど。
ちいさくないて、脱力して、蓉子の重みは私にかかってくる。あらい息が服を撫でているだろう、その薄い感触は私には捉えられない。指が丸めこまれジャケットが引きつれるのは分かった。それくらい脱ぎなさいよ、などともうすぐ言われるのか、今は呼吸することで精一杯のはずの、忙しなく動くその唇で次は何を言ってくるのか。意味を持たないことばの代わりに。唯一雄弁だった瞳の代わりに。想像はつかずけれど対する私の反応だけはおぼろに見えた。なまじ見えてしまうからいけないのだ。軽く蓉子を撫でてやる。どこをということも無く、明確な意志がある訳でも無く。さらさらと流れていく。部屋の空気。
……え、りこ
呼称に溶けるのは残骸。自らの唾を飲み下す音が響き虚ろに消えていく。続きはなかった。欠落、それ自体が自然になってしまう。現実感が空気の密度が酷く稀薄だ。
眠さをこらえる。こらえた、振りをする。伸びてきた腕が掴むその先は無い。気休めは不要。気遣いも無用。境目の把握ばかりがうまくなって行く。
はっ……ぁ……
吐息の熱さはすぐさま消えていく。表層を執拗になぶる。苦しげな様はまるで鏡だ。
感情と思考と多分理性だけが、静かに残っていた。










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ちょっと、江利子!

朝から元気ねえ


近所迷惑だのなんだので、昨日あれだけ声をこらえていたくせに。
深夜よりよっぽど迷惑じゃないか、と朝型人間は思ったりしないのだろうか。


これ、どういうつもりよ!!

あら、何か問題でも?

あ、当たり前じゃない!

いいじゃない、そのまま学校行けば

……ふざけないで


本格的お怒りモードの前触れを、肩をすくめるだけでやりすごす。


恋人につけられましたって言っておいたら?

……恋人、なんて


言える訳ないじゃない、と無言の非難。私からすればどうして言えないのか理解に苦しむ。
その場に私がいないなら、いっそ彼氏だと誤解されたって構わない。


強姦魔でも良いわよ?

……良くないわよ
そんなこと、言わないで

あら、どっちも本当じゃない。
親友って言われる方がきついわ


にこやかに釈明してみせる彼女の姿が容易に想像がつくから。
後で詰め寄れば困った顔はみせてくれるけれど。ごめんなさいも言ってくれるけれど、蓉子はきっとそれを繰り返すだけだから。

世間体なんて学生が考えなくてもいいのに。見た目はどこまでもストイックな蓉子に咲いた小さな反逆。素直な夜のように、中から滲み出た紅色が、染め尽くしてしまえばいい。

























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