遣らずの雨
「……雨、ね」
「うん、降ってるねー……」
雨樋が近い部屋だから、空から降ってくる音より流れる水の方がうるさい、午後。 志摩子さんは私のベッドにちょこんと腰かけて私の方を飽きもせずに見ながら話しかけてくる。
「乃梨子は、雨、嫌い?」
他愛もない話が、今の少し気だるげな空気にはよく似合うなんてらしくないことを思う。暖房は効かせてあるから寒くはないはずだけど、素肌に一枚はおっただけの志摩子さんは美しくて眩しい。私がさっきまで触れていたというのが馬鹿げた嘘に思えるくらい。
「うーん、濡れるのは苦手、かな。 こうやって見てるだけならそれなりに」
今なんて遣らずの雨だし、と心でこっそりと付け加える。 本当に志摩子さんが帰らなきゃならない時間まで降ってたらちょっと申し訳ないかなあ、とは一応考えつつ。
「志摩子さんは?」
目の遣り場には困るけれど見ないなんて勿体無い志摩子さんを眺める私は部屋の暖かさで頭まで随分と溶けている。ぶらぶらと椅子から伸ばした手足にほわほわの志摩子さんの感触が蘇って動きが照れ隠しのじたばたに変わる。志摩子さんはそんな私に少し首を傾げて。
「好きよ?」
鈴の音より綺麗な声でそう言った。
「だって、乃梨子が来てくれたもの」
思い出すのはあの雨の日?
目を細める志摩子さんを思いきり抱きしめたくなって、私は思わず椅子の背にぎゅーっとハグしてた。変な子、と笑う志摩子さんの笑顔が嬉しい。私にそう言って、笑いかけてくれるのが嬉しい。
「じゃあ私も、大好きってことにする」
こんな素敵な志摩子さんを、捕まえられたから。
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おとまり
彼女がいるだけで、私のまわりは、ひどく華やぐのだ。
「志摩子さーん、しょうゆってどこにあるのー?」
「食卓用のなら食器棚の一番左にないかしら?」
妹の乃梨子が泊まりに来て、昼。はやく夜にならないかしら、と思う反面、できるだけゆっくり時間が過ぎて欲しいとも思う、わがままな私のエプロンをつけた彼女は、長くはない髪をひとつに結んでいる。ちょっとだけ大きめな紺色がよく似合うと、上半身だけ部屋に覗かせた本人に言ってあげようかと考えてみてやっぱりやめる。くるりと翻った後ろ姿、ひょこりとまとまった髪が揺れる。どちらが作るかで少し押し問答をした、数十分前のことなんて既にお互いに良い思い出になってしまった。
「あーあったあった。えっと、塩と、あとは卵、と」
「卵は冷蔵庫よ」
「それくらいはわかりまーす」
「あら、
…ふふっ、それもそうね」
本当はふたりで作りたかった。大事にし過ぎた本音のカードを、出しそびれた私は今その過ちを流し去るくらいの勢いで乃梨子の優しさに浸っている。――また今度。言い訳までが甘くなる。とろんとした空気が、さわさわとふたりを繋ぐ。
「もうちょっと待っててね」
「ごきげんね、乃梨子」
「もっちろん。
志摩子さん家の台所、使いやすいし」
「それでごきげんなの?」
「それもあるけど、三番目くらいかな」
「二番目はなあに?」
「志摩子さんのためにご飯が作ってあげられること。」
「……一番は?」
「もちろん志摩子さんとこうしていられること、だよ?」
「……なんだ」
「え?」
ふわりと漂う、卵の焼ける匂い。和食じゃなくて良かった? なんて、私の毎日の弁当箱の中身を知っている乃梨子は悪戯っぽく笑って私の頬に唇をつけた。まだお互いに慣れなくて、染まる桜色。へへっ、と目の前ではにかまれたあの照れ笑いを思い出して、出来心で口の尖らせ方を真似してみる。
「心配して損したわ」
「志摩子さん?
……わ、ちょっとごめん、焦げるっ」
じゅう、と香ばしさ。浮き足立つ心が尚早にも私に唾を飲み込ませた。何かあったら聞くかもしれないけど来ちゃ駄目だから! なんてこどもっぽく主張され、可愛さについ頷いてしまったことで私は想像ばかりで心をはやらせ続けている。
「やっぱり手伝いましょうか?」
「いいの、お礼だから!
……うっわぁ」
ふたりっきりだと言動が多少おおげさになる彼女の、情けなさを帯びた悲鳴がこちらまで届く。見に行きたい、でもこの弾む楽しみをこのまま転がしてもいたい。幸せな葛藤に満たされながら、部屋を隔てた会話は続いていく。
「うまくできた?」
「……内緒っ」
「できてからのお楽しみ?」
「そういうこと……かな?」
くすくすくす。漏れ出てしまった笑みは、あの子のところまで届いただろうか。
「じゃあ、楽しみにしているわ」
「…うん、頑張る」
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その矢印の刺さる先
「可愛いなあ」
「馬鹿にしないでもらえますか」
「本気だよ?」
出来るならなるべくなら会いたくない人とふたりきり。 聖さまは物凄く煙草が似合いそうな恰好で私をからかう。私が未成年だから遠慮してるのかな、と考えてもみたけれど。多分頭の上がらないらしいあの人に止められているのだろう。一回志摩子さんの前でライターを出したときに思い切り睨みつけても聞かなかった人が、孫(しかし大変不本意な関係だ)に思いやりなんか覚えるものか。
「私は聖さまのような人は嫌いじゃありませんが」
前置きはただの前置き。にやつく上級生を今すぐ何かの魔法で消し去れるものなら是非ともそうしたい。選ぶなら塵ひとつ残らない攻撃魔法。
「志摩子さんのお姉さまとしては嫌いです」
「そ」
予期していたかのような返答。志摩子のことなら何でも知ってるよ、と、見せつけられているようで。理不尽な苛立ちが理不尽に募る。八つ当たりでしか、僻みでしかない黒い感情。
「私は乃梨子ちゃんが志摩子の妹で良かったって思うけどね」
ああもう最悪だ。この軽い声が、慈しみ、とやらを隠しながらもどうしようもなく感じさせる真剣な本音が、志摩子さんを私から遠ざける。いや、私ごとこの人のそばに引き寄せる。
「……嫌いです」
そんなに何度も言われると傷つくなあ、と、その実ちっともこたえてなんかいないくせに。 かなわないこの人が、この人でなければ良かったのに。神さまマリアさま亡くなられたご両親、私がけなすことすら許されない、羨むなんておこがましい存在だけが志摩子さんの中にいたなら、私は、ただ諦めるしか選択肢を与えられずに済んだのに。
悔しくて、悔しくて。笑う聖さまが私にすら優しい目を向けている現実を握り潰す勢いで、こぶしを握った。 自分の醜い嫉妬ばかりが、どんどんと私の上に降り積もる。黒髪の子、好きなんだから、なんて軽口すら、今の私にはただ重かった。
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