春紫苑



奥歯で噛み砕く。水道水で流し込むと、詰め物の取れた虫歯の治療痕に沁みた。死ぬほど痛い。今から死ぬのだからどのみち問題はないのかもしれないが。


「……なんてね」


睡眠薬一錠で死ねたら世話はない。かさかさの説明書とカルキすら刺激になる不摂生の賜物が昔の記憶と結びついて妙な化学反応を起こしただけだ。必ず守らなければならないらしい用量は一回半錠だから、多少害はあるだろうが、それだけ。二回にいっぺんは半分に割らなければいけないというそもそもが間違っている。こんなものを常用する奴らがそんな面倒を自己なんかにかけるはずがないのに。


蓉子に怒られそうな発言だな、と思う。それ以前にこの挙動が知れたら、彼女は目をつり上げるに違いない。その激昂は優しい。私のためということはつまりは痛いということだ。

……痛いのは、嫌いだ。


もう飽きた、と言い換えても良い。蓉子はいつも必死で、頑張って頑張って、私に手をかけては前を向かせた。光の差す方が正しいだなんて一体誰が決めたのだろう。そいつが存在するなら、恐らく蓉子みたいな人間だ。尖らせた感情を突き刺される賢者。私の頭ももう大概湧いている。


ふらつく足が陶器の破片を踏み抜いた。鋭い痛み、思わず悲鳴をあげて蹲る。歯を食い縛りながら引き抜くと、私の汚い血が白い皿だったものと床をよごした。一番大きな欠片に向かって手を振ると、きいんと高い音。深夜に近所迷惑だ。アパートの壁はそれなりに薄い。左隣のロック野郎を、たまに殴り殺してやりたくなる。


殺人事件の現場にもならない血痕は、それでも点々とついてため息を誘う。蓉子に怒られるな、ぼんやりと思って、そんなことはどうでも良いんだ、と首を振る。ずきずきとする足の裏が、現実を代表してますとばかりに私に警告を寄越す。放っといてくれ。もう充分なんだ。心配も優しさもお節介も説教も。蓉子で充分だし蓉子のだって迷惑だ。殼越しになんか触らないで。心臓を持っていかないで。


霞みが深まり、蓉子の腕が私の内臓を掴もうとずぶりと沈む、グロテスクな想像までを虚ろにする。転げるようにソファに座った、くず折れた私は酩酊とはとても呼べない悪寒と吐き気に身を捩らせる。蓉子のばか。私を止めることもできないくせに。


天地と明暗がひっくり返る。本当に眠れるものなんだな、と、回り続ける周囲に紛れ歪みながら私は泥に足を取られ口を塞がれぐちゃりと沈んだ。

夢だけはみたくないと強く願った。










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ソメイ ロ



「……もう、散りかけだね」


ぽんと老樹の幹に置いた聖の手は、思い出の名残を求めてさ迷う。


「……聖」


放っておけば良いのに、見ないふりをすればそれで済むのに。その記憶に含む棘に、気付いてしまう自分を厭う。声を掛けてしまう自分を憎み、それでも聖のためという免罪符に縋る。傷つかないで。強くなって欲しいけど、自傷はしないで。

聖とふたりきり、が本当にふたりきりなことなんて殆ど無かったから、今更他人にどうこう、は無い。諦める以前に願望を持てなかった私。

呼びかけの意図に気付いた聖はほろ苦く笑う。ばれちゃったか、と、諦めの素顔を見せて。


「蓉子って聡いよね」

「……違うわ」


馬鹿になれないだけなの。見過ごせないだけなの。その方が楽だって知ってるのに、うまく立ち回れない私の頭。

こんなときにこんなことを吐露しだす私の口は、馬鹿正直にかわいている。


「楽になれないの?」

「ええ、でも、あなた、も」


きっと私のせいでたくさん苦しめてしまった。余計な干渉をたくさんした。不必要な言葉をたくさん浴びせた。あなたを助けたかっただけなのに。私が貰ったものの方がきっと多い。無駄じゃなかったなら、救われたのは私のエゴ。


「…そうでもないよ。」


木の幹に手を当てたままの聖は、桜に向かって呟いた。滲み出たことばが私の鼓膜を震わせる。空はこんなに高いのに、これほどまっすぐに自分に届くのは不思議とすら思う。

優しい聖。聡い聖。繊細で脆くて、桜みたいに儚くて。凡庸な表現が、陳腐な装飾こそが無駄になる、美しい存在。
息を吐く。彼女の親友である私は、聖をただ賛美するだけではいられない。崇拝も盲信も出来ない。遠くから眺めて満足していられる馬鹿にはなれない。

だから私は今、彼女の親友で。


「……あ」

「え、何?」


風が跳ねあげた聖の髪と服に、私は桜吹雪以上のものを見た。そしてそれを即座に封じた。大切に箱に入れておきながら、心の奥にしまいこんだ。


「……ううん」


見過ごせない私は、現実からかけ離れた聖の欠片ばかりを抱えて、現実の彼女を知る。絶えず流れ込む実感とやらが降り積もり願望も桜も埋め尽くすまでは、嫌いな私自身に対し、少しばかりの抵抗を。










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あじさいの藍



「私のこと、どのくらい好き?」


ありがちな台詞を吐いた夜はしんしんと冷えていた。


「何よ、いきなり」


吐く息が白い部屋で、何も身体を護るものを持たない蓉子は私の腕の中にいて。服も理性も剥ぎ取った私に身を任せる冷たい裸体の身動ぎは私を懲りもせず熱くさせる。


「いいから」


まだ剥ぎ足りない醜い欲が蓉子を解体させようとする。私しか残らなくなればいい。要らない部分をずたずたにしてしまいたい。


「……そうね、」


じっ、と考え込む蓉子は私をぞくりと震わせた。

動きを止めた蓉子に合わせこの部屋が丸ごと固まってしまった感覚に心臓を鷲掴みにされ、浅はかな欲望が握り潰される。


「あなたになら、殺されたって嬉しい」


ふ、と笑う蓉子はどこか遠いところにいて遠いところを見ていた。


「そして、あなただけは殺せないのよ」


蓉子の存在が、ずしり、と、私のどこかを圧迫して。


「私、だけ?」


なにか言わなければ、合いの手を挟まなければ今に空気が全部なくなってしまう、くらいの切迫した恐怖に駆られ辛うじて。搾り出された掠れた声はからからの心境をよく表していた。


「……私、ずるい人間なのよ」


まっすぐなはずなのに、こちらに向かっているはずなのに、ここには落ちてこない声。


「あなたのためになるのなら、きっと殺人すら犯せてしまう」


どんな人でも、どんな状況でも。

淡々と解説される、蓉子の「愛情」とやらに私はただ惹き付けられていて。


「あなたが笑っているのが好きなの」


そのためなら、何だってするわ。

荘厳な儀式に良く合いそうな抑揚。捧げられた供物から滴る鮮やかな血色が私の網膜に強烈に焼きつく。


「……だから、本当は、あなたのためですらないのかもしれない」


答えになって無いわね、と微笑む蓉子。白い裸体がゆらゆらと浮かび上がる。


「もう、どれくらい、とか、分からないのよ……」


身を起こした蓉子はぺたりと座ると私の方についと腕を伸ばして。

私を見つめる。人らしいまるみは帯びているものの優しさが抜け落ちた醒めた顔つきは私を固まらせるに充分だった。


「聖、」


嗚呼、絡みつく腕はまるで私を締め殺してくれるみたいだ。


「好きよ」


流し込まれた愛情は私の中に沈み。抱えた腰から撫で上げていき辿り着いた首の付け根で右手を広げその肌の境目を覆う。


「……私もだよ」


伝わる血の巡りは滾ることなく私の行動を許し続け。両の瞳で見据えられた私は腰に残る左腕に強く強く力を入れる。

くっと、笑いが喉の奥に零れた気がした。











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エリカ



「すきだよ」


聖の求める私に人格は必要とされていない。

出来るなら殺して欲しかった。それが忌避されることだと知っていて。あなたを最も苦しめるとわかっていて。過去の私が何より恐れ羨み唾棄したか覚えてすらいて。小さな死を幾度も迎えた夜、私は声と喉と共に夢を枯らした。欲望の蛇口を壊してしまった。

溢れきった後に残る細い筋が私を貶める。こびりついた願望が惨めったらしく歪みを啜り、食まれた肌の下に溜まる血は私の気を淀ませる。はびこる浅ましさを摂取し尽くし満足げに笑った聖は私の懇願を全て聞き流した。まるでそれが征服の証であるとでもいうように。

捲れあがった唇の端は赤を通り越して肉の色をしていた。


「……蓉子、愛して」


あと一文字で私は救われるのに。見限った願望に過ぎた思いに対する許しをくれない聖は私の唇を塞ぐ。確かに一種の儀式であるそれは足の早い果実を手にしては棄て続ける作業に似ている。滔々と流された情は粘性ばかりを携えて抵抗した。

綺麗な言葉をずらずらと並べられるより、ただ一度抱きしめられた方が嬉しいときもある。棘と刃を浴びせられるより、一思いに貫かれた方が苦しいときもある。ことばの暴力。流された私。諦めてしまえば佐藤聖という単一色に染まり尽くせると知りながら、手放せられない理性がのたうって苦しみ続ける。鈍磨したがる神経を揺さぶり追いつめる。あぁこの状況は一体誰の所為。


「……う……ぁっ……」


聖が呻く。私が傷む。塞がった懇願を受けるのは私の方。弱く荒々しくじっとりと湿った口調。
背筋に走る怖気と快感に、私は目と耳と心を塞いだ。












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春紫苑 2



夢の中。嗅覚があるならむせ返る暑さすら鼻腔から得られるだろう、一面の花畑。なんて陳腐な。彼岸なのか此岸なのかもしらない、無臭の植物の乱立。

いつも私はこの赤や紫の中で蓉子の首を締める。死んだように眠っている、あるいは眠るように死んでいる彼女の黒髪の生え際に指をかける。触覚はあるはずなのにその肌に生気が宿っているのか、私には判断も判別もつかないのだ。茎や花びらを千切る仕草でかくりと落とす、感触からするならば殺しているのか。原色ばかりが鮮やかな地で私は淡々と歪んだ想いを蓉子のかたちにして潰し続ける。

背の高い草をかき分け、彼女の虚像をさがすところから始まる一連の流れは、もう夢から覚めてさえなぞりそらんじられるほど繰り返された。濃い緑の制服を纏い、ざわめく春紫苑に埋もれ沈んでいる蓉子は、ただ白く目を閉じて横たわっている。無垢な表情。知らないはずの姿はただの妄想で、私の醜い欲望に過ぎない。ごくりと鳴る自分の喉と、まさに同じ場所にあてがった手は、雑草の汁をしみつかせまだらに赤黒い。知覚できない腐臭を濃くしながら、肉の見えるその二本は次の蓉子を探し求める。

野の花に混じる麻が、芥子が、時折私に触れては内から穴を空ける。くだらないリピートは重ねる毎に擦りきれの度合いを増し、境界は不明瞭になり地平は消滅し。腐る腕をぶらさげたまま、啜った指の欠片はサルビアと同じ味がした。草花はますます生い茂る。来るたびに蓉子の柔肌の抵抗力は落ちていく。

白い粉がぱらぱらと降りそそいで、強い風が私を蓉子の上に倒した。さっき駄目にした頚椎が、蓉子の顔を背けて接触を回避させる。私の願いを叶える箱庭は、亡者を抱えて変質した充足を返す。交わりたいと思えばただれていく。触れるとともに朽ちて行く。目を開けた蓉子には何もできない私が、一方的に逐情するヒースの丘。いちど座り込んだら溺れてしまう。

人の濃い匂いを感じると同時に私はタオルケットをだきかかえて横たわっている。時代錯誤な衣装ではない蓉子は瞼に睫毛の影を落としている。花の匂い。吐く息に混ざる無機質。

無防備な蓉子に伸ばした手の色は、闇に紛れわからなかった。




















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