奈落



心中で何度血を吐いただろう。げほりと吐き出される鮮血、瞬く間に赤黒く濁り醜く広がり辺りを汚して。

いっそ現実でも喀血してしまえれば良い。肺を痛め喉を焼きこの苦しみを具現化させられれば。諦めもついただろうか。誰かに心配でもして慰められたのだろうか。

そんなに脆くはなれなかった私はあなたの憎しみの視線を受け続けた。いつしか優しく穏やかになって、けれどたまに私には呪い殺せそうな絶望の目を向けて。

負の感情を与えられるのは私だけなのかと、そんなことで優越を感じ始めた自分の心の疲弊具合には、腐食した金属の接触音には耳を塞いで。私はあなたを受け入れた。優しいあなたが好きなのか、繊細さに惹かれたのか。世界を斜めから見る醒めた目つきが気になったのか、もうわからない。あなただから好き。なんとも恐ろしい思考回路。

くら、と意識がぶれた。手の平に爪を立てやり過ごす。貧血と紛う白さ、心因性のこれに、解決策なんて。

はっきりしている。明確にわかりすぎている。自らの血の海で苦痛に悶える私に、救済の糸は目の前に垂らされている。けれどもうひとつの解決策は。叶うことは無いのだと日々の地獄の中で見せつけられて。

隣に立てるだけで良いの。現状維持だけが、果てのない不幸の砂漠が、私に許された唯一の楽園なの。唯一無二の幸せなの。

溢れた涙が、嗚咽と共に痙攣する小指の先が、私の欲望を照らして紅く。血痰のようにぼとりぼとりと落ちていく。削られる身体。糜爛する心。

それでも崩れない。駄目になったりなどしない。だって私はあなたが。あなた、が。

あなたに迷惑はかけないから。あなたに必要とされているなんていう錯覚くらいは、許して欲しい。それが唾棄すべき現実の代表であっても、整理のつけられない衝動の捌け口でも。













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「ごめんね」



“蓉子、愛してるよ”

“知ってるわ”

目を細めたあなたは、本当は、泣いていたのかもしれない。





「……蓉子」

そっと、声をかける。息を潜めても小さな寝息すら聞こえない。べたべたと夜の闇がまとわりつく。

蓉子の肌に生々しく残る情交の痕。私の欲望の証、蓉子を貪った軌跡。赤黒い汚れが染みだして染みこんで。刷りこんでしまった私の衝動。

ついたためいきはどこまでも独りよがりだった。蓉子の涙の跡は、なんのためか、本当はとっくに知っていた。不誠実な私が傷つけた心が、蓉子の悲鳴を必死で届けようと流れ出た滴。本来なら、私には触れることすら許されないはずの慟哭の証明。

それでも離れて寝たら、明日の蓉子はきっともっと傷つくから。
私よりひとまわり小さな体躯を抱き抱える。こんなときしかできない諸行、こんなときしか蓉子は安らいだ表情を見せてはくれない。無防備にさらされた寝顔は幼くて、いつもどれだけ強い意思が宿っているのかまざまざと思い知らされる。重い愛を、殊更に軽く見せて、私に負担をかけまいとして。おかしな優先順位をなんでもないわ、と笑って貫き通す、蓉子の抑え込んだ願望にも気づいていた。応えられない私はどこまでも自分本位だった。

こんこんと眠る蓉子を、腕に収めながら私は。
それでも抱かれ守られているのは私なのだ、と、小さく自重の笑みを浮かべた。
本当は泣きたかったのかも、しれなかった。









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ジューン・ブルー



「……雨は、嫌いだ」

血を吐くように呟く、あなたの弱さ。
だけれど、その弱さは勿論だけれど、それを私に見せてくれるのが嬉しい、なんて不謹慎なことを、本当は私は。
言えないからこそ抱き続け膨らませて馬鹿になるのだ。


「……そう」

ばたぼとと天から落ちる水。汚いものも全て受け入れ、汚いものとなり流れていく。美しい聖の肌を打ち、跳ねるそれに私は嫉妬する。あなたに嫌われ憎まれ最後には泥水になっても、私には手の届かない領域に安々と踏み込める液体。そういっそ彼女との深い記憶にまで。


「何してるの」

「別に」

あなたと同じように戸外に身を踊らせる。
鋭い目つき、苦しむのに疲れた瞳、私の胸を熱くさせる。


「勝手なこと、しないで」

「勝手って、何が?」

あなたを苛立たせることを知っていて。聖のやわい神経を逆撫でする私は私自身に杭を打った。抉ってぐりぐりと傷口を広げ塩を塗った。
それはただの儀式。得たものの罪深さを確認させるためだけの形骸化した痛み。


「勝手に哀れまないでくれる!」

迷惑よ!!
あなたの叫びは本当は私になんか向いていない。


「哀れんでなんかないわ」

哀れむというなら私はこうまで愚かな自分自身を哀れんでいる。
そしてあなたには畏敬している。貴いその魂を優しく抱いてみたい。この泥に塗れた手で叶わない思いを代わりにいだく。あなたを苦しませる元凶に向かい腕を広げる。


「やめてってば!」

「あなたのためじゃないもの」

この告白にこめた意味なんか、あなたは絶対に知らないままだから。
あなたの救済なんか、願わないわよ。
雨音が勢いを増す。私の髪を張りつかせ目を細めさせ服を重くする。鈍る動き。これ以上の束縛は要らない。
くるり、あなたには背を向けて。途端縋る目つきを感じながら、ごぼりと樋を流れる醜い音を聞きながら。勿論十字を切ることも手を結ぶこともなく。
私は祈った。聖を置き去りにしたまま、冷えきる身体を心をそのままにした私が、自分勝手な願いだけを、神に。










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サファイアを割る



「か、は……っ」

げほげほと首元を押さえ喘ぐ、目の前には黒髪の乱れた少女。私を押し戻そうとさっきまで必死でまとわりついてきた手は、私よりひとまわり小さくて。だからくっきりとついた痕にはまり痛々しさを際立たせる。
同情なんてしない。……するものか。


「馬鹿だね、蓉子は」

ほら、さっさと逃げなよ。
逃げない方が悪いのだと、破綻した理論をかざした手を、もう一度蓉子にゆっくりと近づけていく。あたたかい首筋、柔らかく脆い肌の下で脈打つ感触を、まだ神経が覚えている。


「…やめて」

拒絶するあなた。黒い衝動を狂気にまで高める、その、真摯な瞳。刃物を突き立てぐちゃぐちゃにしてやりたい。いやこの指先だけで事は足りる。
そうすれば私は、蓉子を。


「私なんかを背負わないで」

苦痛を抑え込む強い目は、ただ私のことばかりを思っていた。
……私には、それがひどく重たくて。有りもしない翼をもがれたようにすら感じて。


「……うるさい」

うるさい!
癇癪だ、みっともない、と醒めた精神が私を貶す。私はそれにすら耳を塞ぐ。


「ぐぅっ……!」

この強い人を。私は突き飛ばし馬乗りになって、この身体を、気高い意思を、プライドを。裂くだけではまだ足りないとでもいうように制服を剥ぎ取ってからも蓉子を貶め苦しめようと。


「……蓉子、受け入れてよ」

はっと目を見開く蓉子を、どこまでも強いこの人を、殺すことはできないまま、ただ。
罪を重ねる。べっとりと蓉子に擦りつける。地団駄を踏むこどもが踏みつけにして玩具を壊す。腕をもぎ叩きつける。


「蓉子、お願い」

物言わぬ残骸になるまで。そんなことはできないと知っていながら、少なくとも、意識を飛ばすまでは。








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人魚姫の足



次々と女行脚を繰り返しながら、私だけはけしてそんな目では見ないあなた。特別なのが嬉しい。対象にはなれないのが悔しい。甘いことばは囁かれないけれど、それを貰える彼女たちよりは近くにいることを赦されて。ああお前の望みは永遠に叶わないのだと、その代わりに側にだけはいさせてやると、まるで人魚姫の声のように。足の代わりにずきずきと痛む心。突き刺さる激痛は胸を圧迫する。
肉体の痛みも欲しくなって、いつからか自分を慰めることを覚えた。自涜とはうまいことを言ったものだな、と、苛むためだけに手を動かす。血を滴らせずとも、痕の残る手段を使わずとも、自らを虐め責め倒すことなどこんなにも簡単。
どんな痛みも私の歩みを止めることは出来ない。
私には腕がある。あなたを抱え込みたい腕、けれど汚れた腕。あなたに触れたい指、愛を囁きたい唇、求めるあなたを見たい瞳。吸われたい胸、なぶられたい身体、迎えいれたい場所、全ては叶わぬままでひとり嬌声をあげる。奪われた声。あなたには届かない告白。許されぬ懺悔。
……ああ、痛い、な。
まだ足はついている。激痛は私の恋路を阻んでくれなどしない。例えもげても這ってでも進むだろう愚かさを止めるものなど何もありはしない。
そして私は歩き続ける。あなたの隣に立つために、代償の痛みを引き受けて。針を差す鋭さを脳天を突き抜ける快楽という名の地獄を甘美にすら感じて。
いつかこの思いごと泡になって消える日まで。
















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