すぐに行くから




電話の向こうに、涙の気配。

密やかにすすり泣くことすら自分に許さない、強く正しくあろうとする蓉子の綻びがはらはらと伝わる白い子機。握りしめたまま、私はその場しのぎの話題を作り出す。


糸電話のように単純で分かりやすい結びつきなら良かった。単一の振動だけで伝えられる現実ならばもっと安易に対処できた。

文明が生み出した複雑な回線に、その先でじっと堪えている蓉子を多少なりとも変質させられたようであまり良い気分ではない。

「すぐに行くから」

もう少しの辛抱だから、と、ぴんと張りつめた琴線には触れぬよう囁く。無意味だからやめなさいとここから断ち切ってしまっては、糸の切れた蓉子を抱き止めることができないから。まるで事切れたかのように落ちてくる、精神を掬いとり強引に繋ぎ止めるには目の前でなければならない。


そんなに傷つくなら、見なければいいのに。


夏休みを返上して、わざわざ学校まで苦しみに行くなんてただの馬鹿だ。報われない恋を確かめないではいられない精神を自分では殺せないから棘だらけの循環を繰り返す蓉子。その一部に組み込まれた私はといえばわざわざしがみつきやすい服を取り出し走りやすい靴を履いている。どうせそろそろだと思っていたからすぐに終わる支度。


傷つくのが嫌ならば、私も行かなければ良いのだ。


は、と漏れた自嘲は不合理な私の行動を責め立て、されど止めることはけしてなく。蒸し暑くどこかで蓉子と直に繋がっている空気にそのまま消えていった。













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届かない無声音



遮光カーテンが遮断するのは光ばかりではない。


……泣いてないわ

泣きなさい、って言ってるの


江利子は蓉子の髪を撫でる。礫砂の舞う地で、幼子を守るように、柔肌に指を添える。添わせ押し上げる。脂肪の無い蓉子の四肢は健康的過ぎて気味が悪い。正しくあろうとして、そう命じた当の蓉子自身を排出しようと試み始めた身体を、騙すように触れ続ける。皮を通して肉に触り、骨に合わせ方向を変える。曲折する愛撫は誰の意思でもない。啜り泣くような声をあげる蓉子の上で江利子は動いていく。互い以外を拒絶し、自らに無い糸を手繰り取られ操られる。寝室のカーテンは分厚い闇の色をしている。


…あ…ぁっ……


涙を持たない江利子は蓉子に塩辛い海を見せる。紅の剥げた唇に含ませる指は蓉子の呼吸と意識を奪い緩慢な死と充足を与える。原因も意味も多重な舌の痺れが蓉子の脳を溶かす。薬物患者の壊れた思考に一瞬重なった浮遊を江利子の糸が絡め押さえつけた。

幾度も繰り返される口づけ、むしろ江利子の吐息を落とされる感覚を一番の刺激として脊髄が揺れる。嘘をつけない器官。疲労し床に張りついた重心と跳ね上がり宙に浮く背や顎が連続した肉体として蓉子を踊らせる。潤まない部分から汗が滴る。江利子が蓉子を呼び、蓉子は返答をせずに江利子を赦した。もとより承諾を要さない挿入は、江利子の意思に反して荒々しくなり、蓉子の意思に逆らってきつい締めつけとなる。幸福を求め歓喜を封じ込める。江利子の中指に歯を立てた蓉子がうっすらと目蓋を開けた。


え……り…こ……っ

……もっと泣いて


足りない、と囁く江利子の懇願は蓉子に慈愛を溶かし。かつて放棄した自愛を蓉子自身のために取り戻させようと躍起になって組み敷かれた少女の内奥を巡る。貪欲な搾取が齎した液体の交換は境界を保つ自制を脅かした。煮詰めた夜を隠す布が、窓が開いたかのようにはためきそれでも内部の呻き声と嗚咽は吸い込んで閉ざす。江利子の髪を噛んだ蓉子の細い腕はピアノ線よろしく江利子を巻き込んで張り詰めた。

絡まり合いふたりで落ちた時には、もう辺りは白み始めていた。消えた夜はふたりの裡でのみ更ける。










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続 共振の孤独




「……蓉子?」


校舎の壁に影が立った。


「…江利子……?」


紅薔薇さまではなかった、から。何を繕うこともなく緩慢に身を動かす。知らずぼんやりとしていた、つけであちこちがぱきぱきと痛む。

いつもの江利子。いつも変わらない、その安定が私には眩しい。身を投げ出したいほどの安堵に包まれたのは、不安定な今の私のせい。江利子のその無気力さを自分本位に解釈する、弱い心。


「どうしたの?」

「なんでもないわ」


私がいつも変わらないのはただの強がり。
知っている江利子はふうんと無感情に返答を返す。


「今から暇、だったわよね?」


ちょっと付き合いなさい、と唐突に。しかし私の手を取ることはなく、私がついてくるか確かめすらせずに歩き出す江利子。
何なのよ、と文句をのど飴のように口内で転がしながら彼女を追いながら私は自らに絡む嫌な感情を少しずつ溶かした。
正しくは「暇になった」ことを知っているだろうに言わない相手に感謝を言えない情けなさを残しながら。





「……一体どういうつもり?」

「公園だけど」


……そんなことを聞いているのではない。

無造作にベンチに腰を下ろす江利子はつまらなさそうに遊具を見回している。橙色の陽も失せかけたジャングルジムやブランコは、やはり退屈そうにこちらを見返してくる。馬鹿馬鹿しい。視線で児童公園を一回りした江利子は座るタイミングを逃した私に眉を顰めた。何をぼけっとしてるのよ、なんて呟かれて(だって私に向けられた言葉じゃなかった、)ぐいっと引っ張られた手首の血が止まった。


「さあ、人生相談でもしましょうか?」

「……結構よ」


辞退する私は木製のベンチに張りつけられる。江利子の隣で鞄を抱える。教科書とノートと筆箱と弁当箱と。今はすべり台や運亭より役立たずな私の所有物たち。
江利子は私を見つめる。私を見ないまま。明るさをどんどん失う遊具とその影に目の焦点を合わせながら。


「何が欲しかったの?」


欲しかった。欲しかった、のだろうか。私のこの欠落感を聖は埋められるのだろうか。


「……別に、何も」


ロザリオも優しさもそれから愛も。要らないし貰えない。二番手に甘んじる強さは私には無いから。


「代わりに私があげましょうか」

「冗談言わないで」


聖の代わり、代わりの愛。どちらもごめんだ。江利子は江利子で良い。誰かの代わりにしたくないしされたくない。

埋めて欲しい隙間を聖には見せることすらできない私は、リリアンの中庭のベンチに取り残されている。手首も首もとも膝も、寒々しく私の欠落感を焦燥に変えてくる。凍えまいと自ら燃える西日の燃料になろうとする。肩も触れない距離で江利子の隣に座っている。

乖離した心が呼ぶ相手と縋る相手を持て余す私は、もうとっくに沈んだ太陽に向け目を細める。象徴というものはおしなべて儚い。脆いから皆守ろうとするのだ。

そう強がる私の上にまた明日、陽は昇り燦々と照る。必ず沈むことを毎日毎日、見せつけておいて。











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アパレイユ



江利子ばかりずるい、と不平を漏らしたのは、確かに、私。


「好きにして良いわよ」

「え……?」

「だから、蓉子のしたいようにして」

「え、江利子」

「何を怖がるの、」


やんわりと腕を取られ江利子の肌に押しつけられる。びく、と震えたのは私の手の方で、私よりふたまわりは大きな膨らみのやわらかさが手の平を介して繋がりそれだけで頭が真っ白になった。直接的な刺激を与えられたというわけではないのに脳髄が痺れる。慌てて振り払えばあっさりと離れ、けれどそれは私に次の行動を起こさせるためのものでしかなく。
結局肩に落ち着いた指先に力を入れ、触れる前からきゅ、と目を瞑り江利子に密着する。


「キスだけで震えちゃうの?」

「……うるさいわよ」


もう無理、と簡単に降参してしまっては、楽しそうな江利子の機嫌を損ねてしまうだろう。口付けたのも舌を差し出したのも確かに私からなのに、江利子に促されたという意識が消えない。ちらつかされた主導権は、結局私をより従順にした。これ以上、を進められる自信がなくて江利子に目線で懇願する。


「ふふ、どうして欲しい?」

「……江利子の、
 …したいように、して」

「じゃあ何もしない」

「えっ!」

「私のしたいように、でしょう?」

「や…っ」


無我夢中で江利子に、私は。


「ふふふ、よくできました」

「……いじわる」


ひどい人。素知らぬ顔して私を試す。愛をはかる真似なんかする。興味がないような格好をつけておいて。私ばかりに求めさせようとして。

緊張からの解放で弛緩した身体を江利子は逃さずに捕らえ貪る。受け止めてくれる。
しがみつきこたえるだけで良い気楽さに理性を溶かされ、私は甘い夜に沈んだ。











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すぐに行くから、は実は縦読み御題「ころす」の「す」でした。
先代でやる予定(聖蓉:「声、聞こえるよ」/聖江:ロイヤルストレートフラッシュ)でしたが半年以上放置するのもなんですしね。
……挫折してごめんなさい。












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