ヤミイロ
もがく蝶の鱗粉を、愛しげに舐めた挙げ句にその毒に冒されたのは、誰だったか。
いたるところで靄が渦を巻く蓉子がそう考えたのに
は、さしたる意味も必然性も有りはしなかった。意識をこちら側に繋ぎ止めておくための思考。フェルマーの二項定理でもどうにも煮詰めきれない英語のレポー
トでも、それこそ今日と明日の夕飯のことでも何でも良かったのだ。この靄に澱む重みから気を逸らしてくれるものならば。書名も作者名も記憶にない、おそら
くは無名にかぎりなく近い作品のそんな一節を選んだのには、それこそ何らかの意味でも存在しているのか。紛らわす命題をそう摩り替えても構わない、曖昧な
論理の網の破れから隙間風がふきこむ。 ぼやけた木目は潤んだ瞳の証左で、蓉子が背けるように首を捩りうなじをさらした帰結でもある。捕食者から?
……聖のまなざしから。彼女の舌と指による行為は蓉子の身体と精神のどちらにも影響を及ぼす。強烈ではあるが、しかしどうしようもなく中途半端に。視線
だけが最後まで蓉子を貫いて、諦めと満足の吐息を吐き出させることができる。両者は本質的には同じものだ。閉塞の果てに辿り着いた者だけが終わりを自らに
与えられる。壁越しのノック。崩れた羽根ではとべない。
上気して震え、時に痙攣さえ起こす身体は、もがく対象を蓉子の想像の外に置いてい
る。浮かんだ一節の前後を思い出せぬまま、記憶を浚おうともしないまま、声を漏らさぬよう食い縛るのは、否定語による懇願に似て。目を合わさないよう凝ら
しているのに聖の瞬きの様まで捉える感覚は、当たり前のように形而の上でほつれる議論より目の前の快楽を選んだ。
心の深奥まで穿たれた穴
をうすくなぞり、目を閉じる。これ以上はくれなくていいと果てに辿り着きたくない臆病者が叫ぶのを頭蓋に近い脳の神経で聞いた。聖は無心に求めている。熱
を帯びた息が時折よりは頻繁に短い髪を揺らす。
結局は蝶は地におちる。そこが果てでないと、誰が言えるだろうか。
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ふぉーりんらぶ
あ、と睨む目元があかいのは、腫れぼったい唇が甘いのは。
「もう、おしまい?」
「そんな、こと、」
抵抗は本気ですれば私なんか易々と退けられるのに。
とっくに私を受け入れている、蓉子はそれでも細い腕を張って秩序と形式を求めてもがく。
正しいやり方なんて。あり方なんて如何様にでも、と嘯く私に腕を絡めた上でお説教をする。
隙をみせないように頑張るその姿勢はきっと無意識のもので。
声で態度で、押して引いて、甘えてねだって拗ねてむくれて、私の道化の果てにふわりとほどける蓉子の笑顔は、苦笑だけれど間違いなく素顔だ。
本音は弱味と考え、頼るのは恥ずかしい彼女はひどく不器用な女の子。
ふわり、
スカートをはためかせ、
ふわり、
私の腕に落ちてくる。
「……柄じゃないわ」
照れ隠しが耳元にかかるのを見越して、咬んだ柔肌にはシトラスがしみていた。
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定義漏れの対象群
「本当は、蓉子のことを、愛したくなんてなかった」
「……そう」
嗚呼、その蓉子の目が、私を容赦なく断罪する。
「ねえ、蓉子も、そうだったでしょう?」
お願い、肯定してよ。縋る私をあなたはいとも容易く受け止めてひとりぼっちにする。
否定されたくない。だけど捨てられたくない。嘘はつかないで。でも残酷な真実なんていらない。
わがままで卑怯で弱い私は、それを武器に蓉子を苦しめる。
「……聖」
私にのしかかられた蓉子は華奢でひどく脆そうな身体つきをしている。潰してしまうかもしれない。今日こそ、今度こそ、駄目にしてしまうのではないだろうか。
怯えながら、愛してると叫ぶ。何かを耐える蓉子に。
(嘘、本当は知っているの。)
「ねぇ、頷いてよ」
(だって何か、にしておけば蓉子は1秒でも長く私の元にいてくれるかもしれない。)
「……そうね」
きつく目を閉じた眼光が、愚かな私を静かに焼き尽くした。
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黒猫の幸運
早朝の街並みの隅に、黒猫をみかけた。
目があった途端逃げていった。横切りも横切られもしていない。
可愛くないけど可愛いよなあ、と今から会いに行く相手がオーバーラップ。
「よーこ!」
なあにと呟くのは、半分くらい口の中で。眠そうな気配が充満してる部屋、ううんと唸る彼女は可愛らしく目をこすらせてこちらを軽く睨んだ。
「なによ」
「……かわい」
思わずぽろりと漏れた本音、赤くなるかと思ったら不機嫌そうに枕を掴んでる。お、投げられる?
「そんなことを言うためにきたの?」
「ちがうよ、猫がさ、」
ちょっと面白くて。
相変わらず蓉子の機嫌は斜めだけれど。こんな無防備な姿を、見せてくれるまでが本当に本当に長かったから。
真面目さが崩れたところを見ると、つい嬉しくなってしまうのだ。
「どちらにしろつまらないわね」
「違うってば、」
近寄って、寝乱れてた髪をふわふわと弄ぶ。最初にちょっと目を細めるのを、見逃す私じゃないし、後でそっと取り繕う努力も頬を緩ませる原因にしかならない。
「蓉子に、会いたかったの。
口実。」
きょとんとしたのは寝起きだからじゃない。ほら、じわりじわりと肌が染まっていく。
健康的な朝日がカーテンの向こう側から射し込んでるからさ。何もしないけどね。
「……どうせなら、もっとまともな口実を作ってきなさい。」
そっちの方が嬉しいわ、なんて。
こんな言葉をさらっと言ってくれるなんて!
朝食リクエストの促しに、さっきこっそり覗いてきた冷蔵庫の中身を撃ち込んで私はにいと笑う。
ふたり分のサラダ、ヨーグルト。
2枚あるに決まってるトーストを焼くのは私がやるよ。
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