ラフスケッチ 3



夕飯後のリビングが、こんなに落ち着くところだったなんて、私は蓉子と住むまで全く知らなかった。
いっそ楽しげに後片づけに勤しんでいた蓉子が、手を拭いてからこちらに戻ってくるのを、寝そべったままで見上げる。咎めるかと思った蓉子の浮かべた微苦笑が、あまりに可愛らしかったので手の中で回り続けていた鉛筆は静止してから床に落ちた。かがんで拾い上げる蓉子が、同じく床にあったスケッチブックに目を止める。


「蓉子も寝転がったら?」

「遠慮しておくわ」


行儀云々の問題ではなかったようで、ぺたりと女の子座り。まだ水気を持った手を気にしている風だったから目で促すと、膝に抱えて捲り始めた。何故だかは知らないが蓉子が喜ぶから、私の自由課題は平面的な作品になることが多い。最後のページに手をかけようとした蓉子から、一瞬奪い取って余計なひとこと。


「そのラフ、お気に入りなのよ」

「……また私なの?」

「もちろん。」


嬉しそうとは言えずとも不快な顔は見せずにスケッチブックを受け取り直した蓉子は、開かれたままのページに目の焦点を合わせた。瞬時にぱ、と染まる頬。効果音すら聞こえそうだと笑みがこぼれる。


「江利子!」

「なあに?」


このやりとりももうおなじみだ。いろんな状況下で、様々な表情で、色とりどりの声音で、繰り返しては私を楽しませた。そういえばこのシーン自体あの時の焼き直しでもある。焼き増しと言うには蓉子の態度は毎度バラエティに富みすぎているか。流石紅薔薇。血は抗えないわねえ、と疑似姉妹の絆を揶揄する私に蓉子は焦った顔を向けた。あら、ちょっと予想外。


「どうして描いたのよ!」

「可愛かったから」


描きたかったから、とかとぼけたら、本気で泣かれそうだ。赤いままこちらを睨む蓉子は、もう息を荒げている。


「だって、こんな!」

「いいじゃない、可愛いわよ」

「変態!!」


馬鹿の連呼から始まって、サディストだの露出狂だのひどい言われ様だ。この絵で見せてるのは蓉子なんだけど。目の端に涙が滲み始めた蓉子を抱き寄せると盛大に抵抗された。寝てる私からすれば体重をかけつづければ良いのだから、蓉子の陥落待ちで事は足りる。


「何、見せてるのよ……っ」

「見たくなかった?」

「私じゃなくてっ!」

「蓉子以外誰に見せるのよ」


むしろ見た輩がいたら、たとえ追想した(ついでにちょっと脳内妄想を足した)スケッチだって許さない。私お得意のやり方でじわじわ追い詰めて再起不能にしてあげるわよ。
びくり、と揺れた蓉子が、同時に至近距離で目を見開いた。これ以上は赤くなりようがないと思ってたのに、種類が違うからか更に染まる顔色が、すぐそこで熟れている。


「……学校の課題じゃないの?」

「妄想スケッチを出してどうするのよ」


そもそもこんな蓉子、他の誰にも、見せるわけないでしょう。
言おうか言うまいかは迷ったけれど、はやく落ち着かせてあげるためのサービスだ。言葉にならない空気を口から量産している蓉子の言いたいことなんて汲み取るまでもなくわかっているから、促しもせずスケッチブックに手を伸ばす。開かれっぱなしのページの上で蓉子は、春の装いで相変わらず頬を染めあげていた。















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年中無休



ぺろ、と、頬を舐められた。


「ちょ……っ」


非難を受け止めて、でも気にはせずに。江利子は私を舌で辿る。触れる唇も、揺れる吐息も、くすぐったくてもどかしくてたまらない。陥落されそうになる。なし崩しは嫌だといつも言っているのに。


「お風呂、入る……ん、じゃ」

「だからじゃない」

べたべたになっても大丈夫でしょう?

「溢れる、わよ」

「自動で止まるから大丈夫」


自分の家の仕様くらいちゃんと知っている。
そうではない、そんな問題ではなくて、


「あ……」


顎を持ち上げられ、反射的にぎゅっと目を瞑ってしまう私に、唇よりも舌よりも先におかしそうな笑い声が降る。
そのあとには勿論。









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未定形



ざわざわと木々が蠢いた。
ぽつねんと立つ私は江利子に見放された身体を無様に囲う。守るよりは縛るように。

彼女は何にも執着しないと知っていた。期待も理解も無意味だと解っていて、それでもふと振り向いてくれた気まぐれはもう少しは続くのだと信じていた。ひどい傲慢。勝手な幻想。壊されたのは、私の中身だけ。

迷惑をかけていた。不愉快な表情を隠そうともしなかったから、私はかえって図に乗った。聖を笑えない。本当に立派な人は説教などしないのだ。先代の白薔薇さまを見るが良い。今の聖を形作ったのが、果たして誰だったかを、思い返しそして思い知れば良いのだ。

寒い。寒い。まだ秋なのに。制服は冬服で、中庭は囲われて、そして私はひとり。
江利子は行ってしまった。代わりにしてなどいなかったのに。江利子の代わりなんて、誰にも務まるはずがないのに。

ほどかれてしまった鎖の代わりに抱いた腕は、冷たく震えている。自縄自縛の苦しみが、ざわざわと共鳴した。

苦しい。辛い。それなのに。

ぽかりと空いた空洞に、一抹の安堵が滲んでいる。









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アクアリウムアフター




「江利子の馬鹿……」


恨み言は水と共に流す。どうして私はこんな時にしか肝心な感情を吐露できないのだろう。彼女の前で出る本音には、偽りはなくとも苦味が足りない。口の中に渋く残る、どろりとした気持ち悪さ。

ざあ、と、やまない音が私の頬を濡らす。水道代、と現実をかき集めて逃れようとする弱い私。江利子が弱らせた。つけこまれ暴かれた。責任を転嫁することを優しく許した。

平素より高い声は体温を反映して熱くこもった。連絡すればきっとすぐに来てくれる。例え江利子で無くとも、それくらいに親しい相手は電話帳にまばらに並べられている。その誰の手も今は取りたくなかった。人並みに労られ看病されるのは今の私には耐え難いほどの苦痛だった。

どうせ、……どうせ。
私は江利子に頼らざるを得ないのだ。
張った虚勢、強がった意識、押し通す我が侭も彼女の手の平の上にある。返されないたなごころは、感覚でとらえればひどく大きくて、包まれた隙間から私はひゅうひゅうと呼吸をする。短縮機能でもリダイヤルでも、発信記録からだってすぐに繋がる電波は緻密で、風切り音も容易に拾う。江利子の沈黙までが濃く伝わる、小さな道具。


「……ばか」


届かせないためにふたつに閉じたままで、私は江利子にそっと縋った。水を吸ったタオルに含まれる塩分が、私の矛盾を嘲笑ってざらりと擦れた。







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ちょっと幸せにしてみた。
唐突なあれこれは膨らませる気概だけはあります。












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