和毛の稚



あ、と思ったときにはもう決壊は始まっていた。
むしろ終わっていたのかもしれない。あわてて目元をこすっても、手でぬぐっても止まってはくれない勝手な涙。滔々とながし続ける私に気づいて、聖はぎょっとしてそしてちょっと引いた。当たり前だ。私だって、目の前の恋人がいきなり脈絡もなく泣き出したらドン引きする。

「蓉子?」

不審を乗せた声は頭上から降ってきた。私が俯いたからだ。聖の隣で。目許を覆った手が隠したいのは、私の存在丸ごとなのに、何もできずしゃくりあげる私に馴染み深い感触がかかる。これは聖のてのひら。
引き寄せる力は、梃子の原理をいつもとても効果的に使っていると知っている。一旦思考しなければできない私と違って、聖の才能は自然体で、日常で驚くほど輝くのだ。
知っている。だから、私は時折途方もなく甘えたくなって、身を委ねてしまいたくなって、そして理性と呼べもしない意地が邪魔をする。

「せい、」

決壊したのは、

「だいすき」

固まった空気、つかまれた腕に食い込む爪。慌てて緩められて、聖が詰めていた息を吐くとほどけた世界は代わりに熱をはらんだ。
……世界、なんて。

「ようこ」

首を振る。え?という声が、無声音のさざなみが落ちて、意思が伝わったことがわかった私からはまた涙が溢れてくる。本当に決壊だ。こわれてしまった。
もういっそこわれたままでいられたらいいのに。

「……このまま、」

怖いくらいに正しく届く本音。
汲み上げた聖が、私を受け止めてようやく、涙腺がゆっくりと、元に戻っていく。








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ひなた




蓉子のそれってさ、癖だよね

は?

急にそんなことを言われても。
きしりと足元で音が立って、私は慌てて重心をずらす。つま先に、そっとかけた体重は不安定で、そんな中で隣の聖がふわりと笑う気配がする。

ほら、それ

え?

かたりと最後の段を踏み。手すりから離した手に聖の手先が滑り、私は無意識下の反応として肌を粟立てるのが精々で咄嗟に振り払えもしなかった。

……なにするのよ

ん?

何が悪いのかわからないと言った呈で首をかしげる、仕草で髪の毛先が制服に擦れる。涼やかな幻聴を聞いてしまった心地がして、不測の事態がもたらす目眩が私の反応野を昏くする。

かわいかったから

唇の上を掠めたざらつきは現実で、竦んだ私を抱きしめたくて堪らない、という目つきをした聖は先程よりほんの僅か深い苦笑いを持って、私から離れた。
彼女を斟酌しきれず階段を降りきっていなかったら足を踏み外していたに相違ない私を射す、外扉の向こうの陽射しは暴力的な程に眩しい。













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綿菓子




なにそれ?

わたがし!


ただいまとおかえりはいつも通り、ぽすりとソファに埋まってこの間からご執心の海外ドラマを見ていた聖は、液晶を停止画面にして待ち構えていた。
その態度にちょっとだけ違和感を覚え、ん?と思う。
声に張りがあってご機嫌に見えるときの聖は、本当は何かに傷ついてることが多いから。


着替えないの?

にこやかに笑いながら訊いてくるから、ふ、と息をついて上着のボタンを外す。
遠慮することで遠回しに構われたがるのは無意識だから、帰宅後の手洗いうがいで湿ったままの指先を滑らせて、軽く口づけ。
深くなる前に離すとこくりと喉が鳴って、私に送るつもりだったのだろう唾液が飲みくだされる。
そのまま目で促せば、手の中で弄んでいた綿菓子の袋をもう一度差し出されて、少しだけ恥ずかしそうな顔。


駄菓子屋さんがね、綺麗だったから

ふうん?

つい物色しちゃいました、

それで綿菓子?

うん、よーこへのおみやげ


聖が駄菓子屋、というくらいだからきっと由緒正しいあの姿をした店構えなのだろう、と想像して、その風景に入れ込んだ聖が余りに不釣り合いで思わず噴き出しかけ、慌てて抑える。
至近距離にいるのだから気づかれないわけがないその所作を、聖はもちろん見咎めて手が伸びてくる。
頬かと思ってたけど肩に手が置かれ、今度は最初から舌を差し入れて来る。甘やかされたがるときのなぞり方。


綿菓子しか買わなかったの?

あー……


何度想像してみてもやっぱり似合わない(でもそこが可愛い……言ってはあげないけど)駄菓子屋の聖は両手いっぱいにきらきらしたお菓子を抱えていた。
誤魔化す口づけは聖が苦しそうだから苦しくて、好きではないから甘噛みで止めて潤いの足りない唇を舐める。


その辺にいた子にあげたんだけど、

…は?


厳しいご時勢だよねえ、と肩を落とした姿があまりにしょぼくれていて、ちょっと吃驚してしまう。
まあ、でも、初対面のお子さんにそんなことをしたら普通、ねえ。


親御さんに不審者扱いでもされた?

……その子が怒られてた、


あれ、捨てられちゃうのかなあ。
ぼそりと仕事用のシャツに埋まった呟きを掬い上げる代わりに、お腹に押し付けられた聖の頭をよしよしと撫でる。
いつもひねたように世界を見つめているからこそ、時に恐ろしく純粋になる聖のこういうところをガラス細工と呼ぶなら、その繊細さなら、私でも守れるから。
慰めるのに言葉で無い方が良い時は、いくらでも時間をかけて甘やかしてあげる。
両手で抱きしめるのに邪魔な綿菓子をそっとローテーブルに落とすと見えない瞳が揺れた気がしたから、おみやげありがとう、と抱きしめ直す前に囁いた。













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おはようの前に




「誕生日おめでとう、聖」

「ありがとう」


当たり前に交わせるように、受け止められるようになったのはいつからだろう。

今年のクリスマスは白色には埋もれなかった。
目覚めて伸びをした手は冷たかったし同時に吐かれた息は白かったけれど。今日は暖かいな、と思ったくらいのぬくもりが私を迎えた。
寒いのは嫌いじゃないけど好きでもない。何より冷え性の蓉子が辛そうなのは良くない。
もっとも、雪が積もったらこっそり瞳を輝かせるのは、実は蓉子の方なのだし。ホワイトクリスマス、みたいなお約束を喜んで楽しめるのも、勿論蓉子の長所で可愛いところだから。
幸と不幸の兼ね合いはまあとんとんかな。
隣で規則正しい寝息を立てているようにみえた蓉子が迷いなくぱっちりと目を開けて、(だから少し前から機会を窺っていたのだと知れた、)誰より一番に祝ってくれたから、私にとっては上々の朝。
訂正、これ以上ないくらい幸せな朝。


「プレゼント、ちょーだい」

「もう、いきなりそれなの?」

「一日中焦らされるとかごーもんですよ、よーこさん」

「仕方ない人ね」


来年からはサンタクロースに前渡ししておこうかしら、なんて。
くすくすと笑う蓉子を引き寄せると、小さな悲鳴と、一緒に埋もれたはずの非難顔が脳裏に浮かんで私を責める。


「ごめん、冷たかったね」


首筋触っちゃったのには、素直に反省。
ぎゅっと縮こまったそこに唇を寄せると、慌てた気配と情に訴える抵抗。
大丈夫、今はしない。(こんなところでうっかりして蓉子のご機嫌と今後の予定を損ねたくなんかない。)
ただ、ごめんね、を表すだけだから。
不言実行で完遂して、そのまま鼻先と唇にも触れるだけのキス。


「おはよ、蓉子」

「…おはよう、聖」


そのままベッドから抜け出して、寝間着のままで小包を持ってきてくれる恋人はすごく嬉しそうだったから。
いつもより少し早い朝食の席に向かうのはもう少し後にして、怠惰なままでプレゼントと愛の言葉を待つことにした。














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