朝帰り (聖蓉)









朝の空気は澄んでいて、好き。



そんなありきたりな賛辞を蓉子は、何時だったかとても自然に呟いた。その言葉が溶けてくみたいで、目を凝らしたけれども私には何も見えなかった。実は結構、落胆した。
あれから早朝に目が冴えて眠れなくなると、よくベランダに出るようになった。隣に蓉子がいないことを除いて、当時の情景を完璧に再現しようとしたのだ。冷たく刺されながら、少しだけ健全な生活を送っている気がして。報告しようと左横を振り向くと、空白。たった今まで温かかったに違いない冷めた空間。

それにももう慣れた。慣れたところで、所詮やめられはしないのだけれど。



冴えた世界の中、息を吸いながら吐きながら歩いていく。一晩起きていただけでどうしてこんなにも気分が違うのだろう。煙越しに世の中を眺めている気がする。その煙は工場の煤煙か煙草の紫煙か或いは硝煙か。見回してもただ硬い建築物が剥き出しになっているだけ。




蓉子の寝言にはいつもどきりとさせられていた。直接伝えた伝えられたことは無い。ただ、うっかりそれを聞いてしまった後目覚めた彼女は、いつも絶望を体の奥底に眠らせていた。まるで入れ替わりで起きてきたかのように。ごめんなさいとかいやだ、とか。幼い感情の吐露をされたことは、彼女の意識が無いときだけ。夢枕に立っている相手は誰なのか、知りたくない癖に私はいつだって息を潜めてしまう。




パタパタと洗濯物を伸ばす音が落ちてきて。朝はまた静かに進んでいく。自転車の走る音もジョギングの靴のリズムも。皆ひっくるめて私の後ろに流れていく。どこかの映画の一シーンみたいに。主人公は残念なことに大層寝不足で、ただ黙々と歩いた。観客にサービス?ポップコーンをくれたら考えようか。




エレベータの中は随分と閉鎖的な空気で覆われていて、私は少し面食らう。ボタンを押すとき滑って8階のまで押してしまった。構うものか。数階くらい余分に昇ったって何も困ることは無いだろう。




鳥瞰図そのものの街並みからは始まりの気配が立ち昇る。ふわりと浮かんだ欠伸は噛み殺せずに、また私の周りを煙たくした。


合鍵を指し込む。鍵の回る鈍い音はどこか手錠を想起させて、そうか繋がれてるのかと納得する。だったら帰って来なくちゃね。



今度蓉子が夢でもがいてたら、叩き起こして助け出そう。余計なお世話でも構わない。無理矢理ベランダまで引きずって行って、そして一緒に朝を眺めるのだ。




言い訳を考える前にそんなことを思って。ひたひたと静かに押し寄せる気配に私は呼び掛ける。



「ただいま」


包み込まれた朝は少しだけ優しかった。











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江蓉の『朝』にリンクさせようかと思っていましたが、いくら江利子でも5階の窓からは飛び降りられないでしょう。『コーヒータイム』の前話には、時間的に無理があります。無茶なことは考えない方がいいというお話です。









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