合計して僕











1、嫌いな声



「痛っ」


ベッド脇の小さな箱に手を伸ばすとばしりと頭をはたかれた。


「それに手を出したらもうキスは打ち止めよ?」


期限を明示しないのはきっとわざとだ。
力ずくで取り上げようとはしない代わりに、見る度に咎めてくる蓉子の声はぶれがなくて一貫してる。まっすぐに刺さって痛い。


「吸い込んで吐き出して、肺を汚して、馬鹿みたいよ」


言い捨てる蓉子は、いつもの優しさが少し剥がれてる。本音なんだな、って思うけれどそれで手放せるくらいならもうずっと昔にこいつとは縁を切っていた。馬鹿なことだし、害ばっかりの煙だって、私にだって分かってる。


「……だって」


最初の最初は多分、ちっぽけな反抗心。
むせかえって、長い吸いさしを灰皿におしつけてそれぎりだったはずの縁を何年も経ってからもう一度繋げたのは、寂しかったから。


「言い訳なんて、聞きたくないわ」


だって、ワルイコトをしている間は、蓉子はずっと私を見ていてくれるでしょう?
心配させすぎてしまったり、他人を巻き込んだりしなくて、なおかつ持続性のあるうってつけのアイテム。


「……ごめん」


蓉子以上に溺れる対象なんて、本当は、できるはずがないのに。


「……聖は、そればっかりね」


突き刺さる言葉の正当性に、肺よりも汚れてる心はじくじくと痛むけれど。
本当は、蓉子の強い言葉に、すぐに揺らぎ折れそうになる自分の方が嫌い。弱いままを許されそれに甘えてしまう自分が端々に滲み出る、情けない声が嫌い。


「……吸わないから」


口実を押しやって蓉子にしがみつく。
今は、って心で付け加えたのにきっと蓉子は気づいてる、けど。


「いっぱい、キスしてくれる?」


呆れたためいきの後にふわりと私の肌に乗った唇は、心地よい酩酊を何度でもくれた。覆われた唇から、私は蓉子の香りを味を何度でも吸い込んだ。
そのあたたかさはやっぱり煙草なんかよりずっとずっと中毒性があって。
ずっとずっと中毒でいさせて欲しいな、って、思った。














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2、理屈より屁理屈



「ね、食べさせてよ」


祐巳ちゃんが分けてくれたたくさんのイチゴを、差し出して満面の笑みで蓉子に告げる。
そのまま手で口で、でも良かったけど蓉子がジャムを作るっていうから。
スコーンが食べたいな、って甘えたら蓉子は嬉しそうに笑って頷いてくれた。


「まだ?」

「当たり前じゃない」


そんな早くできないわよ、とうろうろする私を宥め、試しに食べてみる? なんて私を誘う。深い色のエプロンは蓉子に良く似合う。混ぜてた木しゃもじで赤いのを掬い取った蓉子が熱っと声をあげる。


「蓉子っ!?」


ひらひらと手を振って大丈夫だって表現する蓉子、くわえた指先はここからじゃ見えない。


「……熱かったわ」


ふう、と嘆息する蓉子はちょっと後悔してる顔。蓉子は私のもの、所有物を傷つけられて私はちょっと不機嫌な顔。大切な人、あなたに気取られる前におどけて醜い独占欲を隠す。


「何が?」

「ジャムに決まってるでしょう」

「火傷しちゃった?
 じゃあさ」


何か言わせる前に口に含む。ちゅ、と音の立った、蓉子の人差し指。息を呑み、慌てて引こうとするから軽く歯を立てる。あがる小さな声、眉をひそめたから火傷した肌には多分痛かった、でも何も言わない咎めない蓉子。やめて、は、恥ずかしさから来てるものでしょう?


「……よし」


てろてろになるまで唾液を擦りつけた蓉子の指。甘くって夢中で舐めしゃぶった、ファーストキスは何の味、なんて言葉をこんな時に思い出して笑う。本棚でかっちりした法律資料に囲まれ窮屈にしてる蓉子の甘い甘い小説たち。


「ちょっとは良くなった?」

「……こんなんで冷やせる訳ないじゃない、ばか」


レモンじゃなくてイチゴ味、体温で火傷は冷やせない。私の蓉子は頬を染めてそっぽを向く。


「癒してあげるの」

「……もう」


呆れた蓉子は私だけのもの。ためいきをつこうとした唇を塞ぐと甘い甘い蓉子の味が広がった。










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3、不細工ではない、はず




ねえ蓉子、私の顔好きー?

……何よ、突然


へらへらと笑って、後ろから蓉子におぶさるように抱きつく。くっつくことが主目的、見られてないけど多分気づかれてる表情と狙い。


ねえねえ、

甘えたいの?


迷うことなく私の頭に行き当たる蓉子の腕に鼻を埋めるとほんの一瞬だけ動きが止まって。


なんで?

だって目に見えるものを欲しがるじゃない、あなた


こすこすと擦りつけるといいにおい。密やか過ぎて誰にもばれない、マーキング。
愛してる愛されてる実感が欲しいって意味ではきっと的確な蓉子の指摘がすぐ近くで溶けて。


んー

好きよ、聖の顔


甘さがどんどんと増していく空気を思うさま吸い込む。


整った顔立ちも、白くて滑らかな肌も、優しい口元も、


何かとてもやわらかいところをくすぐられる感覚に目を細めて、身を任せて、もたれかかって。


すっきりと通った鼻のラインも、長い睫毛もその奥で綺麗に澄んでいる瞳も、


くるりと振り向かれる。どちらが抱いていてどちらが抱きついているのか、囲われた空間にはただとても近くにお互いがあって。


そうね、まっすぐに私を見てくれるあなたの目が、一番好き


きっぱりと言い切られる、断定される心地よさ。あるべきものがあるべき場所にしっかりと固定される、安堵感。
複雑な願いを丁寧に解きほぐして優しく手渡してくれる蓉子に嘘なんてひとかけらもなくて。蓉子が好きだと言ってくれたばかりの顔をもう一度、ぎゅっと押しつける。

嬉しそうな、笑い声が聞こえた。












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4、まだ伸びてる



「可愛いなぁ」


きっと睨みつけてくる顔は、まっすぐで、愛しかったけれど胸が少し痛んだ。少女漫画みたいな擬音を立てて刺さる記憶は、気の強いこの少女を媒介にして未だに私を蝕もうとする。


「……そんなにからかって、楽しいですか」

「ん、そうだね、つまらなくはないよ」


普段なら受け流せるだろう言動を、私が持っているから過敏に反応する。今の私の立場は誰だったかな。いちいち過反応になってたのは蓉子だったか。思い返してはみたものの黒髪がトリガーになって想起されただけだな、と三文芝居の配役を打ち消す。俯いた乃梨子ちゃんは小さな手を腿の上で握りしめている。


「嫌いって、言ってるじゃないですか」

「うん」

「なんであなたが志摩子さんの姉なんですか」

「そうだね」

「よりによって、…なんで、」


壁打ちの壁で、ただのオウムで、良いのかもしれない。でも良くないかもしれない。私を良く理解してくれる人か、全く理解しない人か、そうでなければ当たり障りのない好奇の目。随分極端に色分けをされてきた私の人間相関図から、困ったことに大幅にはみ出ている妹の妹。孫という立場を前に、私はどうすれば良いのかわからないし、ちらつく過去を振り払うこともできないでいる。


「……わからないんです」

「…なにが」


間抜けた合いの手は私の口から零れていた。吐き出せばすぐにゆらぎ消える紫煙より重く、喉の奥に懐かしい違和感を残す。飲み込んだ唾は味を持っていなかった。無彩色。風の吹かないベンチにふたり分、夏の汗が染み込んで行く。


「……言いたくありません」

「そっか」


肝要なことは何一つ話さないまま、主題のまわりをぐるぐると公転する。彼女が志摩子に見せない面は今目にしている部分だろうか。私にできることなんてやっぱり殆どない。さしあたってすぐに実行できるのはからかうことか抱きしめることくらいだ。どちらもすごく嫌がりそうだな、と考えたところで、ようやく私の緊張が抜ける。


「そーいうところが、可愛いんだよねえ」

「それ、さっきから、言い過ぎです」

「孫を可愛がって何が悪いのさ」

「全っ然本気じゃなさそうですし、全っ然嬉しくありません」

「素直じゃないなあ」

「来ないでください!」


あ、この反応はちょっと祐巳ちゃんに似てるかも。あの子よりは遥かに機敏に飛びさすった志摩子の妹は、先程までの暗さを全く乗せずにこちらを睨みつけた。その表情が今日見せた中で一番可愛かったけど、これ以上言ったら本気で憤慨されそうなので止めておく。私なんかに嫉妬するより、君はもっと――。

口に出すのは簡単だけれど、私はできた人間じゃないから、責任なんて持てない。ずるずると引きずる思いを、蓉子にまで抱えさせているし、志摩子のことだって実際救っちゃいない。言い訳で固めるこの態度が、乃梨子ちゃんが私を嫌う理由のひとつなんだろうな。ポケットを探る手は何も掴まない。確認するまでもなく、禁煙中だ。

軽快に時が流れている今のうちにお開きにしておくのが得策だろうな、と、空の手を出してひらりと振った。慌てたような感謝と謝罪の混じる挨拶には、言葉でかえすことはわざとしなかった。











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5、おなまえ



「……あんまり好きじゃない」


聖、って呼ぶのが好きなの、と私に囁いた蓉子はまるで宝物を見せるかのような表情で。こぼれあふれる笑顔にまっすぐありがとって返せない私はいつもどぽんと要らない石を落としてしまう。


「そう? 私は、結構気に入ってるわよ?
 親がつけてくれた名前だもの。芙蓉のこども」

「蓮の化身?」


いやだ、そんな大層なもんじゃないわよ、ところころと笑う。私は私よ、と優しく私の髪を梳きその手の中で弄ぶ。
私の馬鹿な部分をあっさりのみこんでしまう。


「……大層なもん、にさせられた身にもなってよ」


私だってよく知りもしない奴になぞらえられたくなんかなかった。勝手な願望を押しつけられたくなんかなかった。


「そう?
 でも、私は聖の名前が好きよ?」


蓉子は優しい。本気でそんなことを言ってしまえるくらいには優しくてまっすぐで。


「……自分じゃ変えられないのに」

「どうせ変えられないなら、好きになった方が得じゃない」

「……夢がない」

「何とでも。」


ふふん、と笑う蓉子にはやっぱりかなわない。悔しくて抱えた腕に少しだけ力を入れる。お返しのように鼻が摘ままれる。膨れるとすぐに解放。笑顔を絶やさない蓉子。


「……でも」

「ん?」


さらりと目の前を流れる黒髪に目を奪われ手を伸ばす。ふわりと舞う蓉子の匂い、蓉子の優しさ。


「私も、蓉子の名前は……、好きだよ」

「…ありがとう。
 それじゃ、こうしましょうか」

「え?」

「私は聖のなまえが好きで、聖は私の名前が好き」

「だから?」

「だからどうって訳じゃないけど、私が好きなんだからそれで良いじゃない」


悪戯っぽく覗き込まれると私の頭はもうそれだけでぼうっとしてしまって。
蓉子は私の名前が好き、だから私が蓉子の好きなものをわざわざ嫌う必要もない。
……そういう解釈で、良いのかな?


「ね?」


暴論でも極論でも構わない。蓉子がくれるならきっとそれが正しい。ふたりっきりの約束事。
聖、と何度も何度も、飽きもせずに愛しげに呼んでくれる目の前の蓉子を了解代わりにぎゅうと抱きしめた。










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6、重い足




さっさと病院行きなさいよ

うー


蓉子のいるベッドに倒れこんで、顔を近づけたら手の平とちゅーするはめになった。いわゆるお預けの状態。留めたのが指先じゃなかったから本気の拒絶。


後延ばしにして悪化したらどうするつもり?


そしたらちょっと余分に削られるだけだって。
いや痛みの方を心配してくれてるのはわかってますよ。ちゃんと。しっかり。


蓉子がついてきてくれるなら行くー

どうして、私が


眉を潜める姿もきれいだよなあ、なんて今更素で思う辺り今の私は相当参ってる。ほら触れないって思うと余計にむらむらくるもんじゃない?


きてくれないの?


嫌そう、より怪訝そう、の方が正しい表情だったからちょっと引いてみる。あんまりやると自分で凹むから本当にちょっとだけ。


病院、怖いの?

……そうじゃ、ないけど、


痛いの、別に嫌いじゃないし。
……いやこんなこと言ったら変な人みたいだけれども。


ひとりで待つの、苦手だから


本の世界に逃げちゃうと、呼ばれても中々気づかないし、ね。
待合室とか無機質なベンチとか、克服しなきゃな、とは思ってるんだけど待つ相手が蓉子じゃない場合私はまだまだ駄目なままで。


……仕方ないわね


こういうお願いに蓉子は弱いって知ってて頼む私は、やっぱりわがまま?


今週空いてる日が明日しかないから、明日行くわよ




譲らないわよ、と強い表情。
こういう蓉子に私はすごく弱い。


……はーい

よろしい


ぴん、と弾かれたおでこの代わりに、ほっぺたがほんのりと熱を持った。












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7、早い手



せーいー?

んー?


語尾の伸ばし合い。伸ばし愛でも良いけど。ちょっと温度差がある気もするけど。


ゆっくりするんじゃなかったの?

うん、ゆっくりは出てから、ね


呆れる蓉子に軽く返す。軽く軽く、言質をとっておければ儲けもの。


矛盾してるわよ。
とにかく、離して


腕を振り解こうと頑張る蓉子。だけど蓉子のスキルがあがればあがるほど私の押さえ込むテクニックも上達してるんだよ?
他の人相手なら無理だし、別に要らない能力だけど、恋人とのイニシアチブを巡る戦いには役に立つ力。


だってここでゆっくりしてたら後でゆっくりする時間が減るでしょう?

のぼせて倒れられちゃっても困るし、焦らさないで蓉子の望むままにしてあげる。


すんなり高みに導かれるときに見せる戸惑ったような表情はいつもの私の諸行をまざまざと思い出させて実はちょっと反省してたりもするんだけど。


ここでこうしてても同じだけ減るわよ

ならここでこうしてた方がいいなー


ぎゅ、と裸の蓉子をまるごと抱きしめる。結構強く殴られたから、ぱ、と離す。感触の名残だけで鼻歌が出てきそうなくらい幸せ。


のぼせるし、嫌

だからはやくしよー、ってさ、

それでどうしてシャワーを取り上げるのかしら?

洗ってあげる!


自分でもわかるくらいの満面の笑み。私からすれば蓉子が不満顔をする理由がないと思うんだけどな。


結構よ

あれー、泡だらけで湯船につかるつもり? 蓉子さん


まあ私の泡なんだけどね。誰のせいよ、と非難する目つきが私からすればとんでもなく可愛いから私はもうにやけっぱなしで。


あーのーねー、聖、……っきゃ!

ふふー、一緒に泡まみれー

あなた、馬鹿でしょう!


馬鹿で結構! 久しぶりの蓉子のオフで、明日もフリーで、お風呂場はあったかくて蓉子は可愛くて。
ご機嫌にならなかったらむしろ恋人失格でしょう?


だからー流してあげるってー

あーもう……っの、大馬鹿……!


怒声に諦めが入って、それってつまり承諾だよね、と私はスポンジを勇んで手に持って。ぎゅーと抱きしめたら蓉子の顔が目の前にあって思わずキス。
お風呂のせいだけじゃない頬の紅さに笑いながら、愛しの恋人がのぼせちゃう前に、と、差し出された腕をやさしく手に取った。












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8、君の眼の中



そんな目をしても、駄目なものは駄目


びしりとばしりと容赦のない蓉子。
きっちり自分の分の食器は全部片づけてから正面に座って、もうテコでも動かないって姿勢。


ほら、見ててあげるから

いえいえ結構ですのーせんきゅーです。
今更おどけても下手に出ても逃げられないのは分かってるけど。


こども扱い、しないでよ

いやならそれに見合った行動をなさい


渋々口をつけるとじわじわと広がる例の味。あまり噛まずに飲み込んでも怒られるしこれ以上量増やされるのも御免だし。まずくないまずくない、じゃなくて味なんか感じてやらない、の精神を引っ張り出して総動員。


……大体、こども扱いも、好きなくせに

こーいう意地悪はされたくないの


どうせ甘やかすなら恋人仕様が欲しい。是非欲しい。
こんなもの食べられなくても死にやしないし全然平気。現代日本語万歳。


無責任にはなりたくないのよ


一体誰にどんな責任があるというのやら。
文句と非難をいっぱいにして、蓉子をじいっとにらみつける。
逸らすことのない蓉子はとても強くて。とても大きくて。


……全部食べられたらキスしてあげるから


単純なご褒美。飴としてしかキスしてくれないのはちょっと不満だったりするけど、蓉子に見られてるだけで、その約束だけでやる気が促進されるのもやっぱり事実だから。


……ん


無理矢理にごくん、として、あとひとくちに箸を伸ばす。私を映したままで蓉子は、少しばかり気が早い笑みをこぼした。











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9、一応の信条




「やっぱり、閉じ込めちゃおうかな」


睦言と分かる程度の甘さにほんの少し本音を混ぜて。溺れていた夜の名残を引き寄せようとまっすぐでやわらかい髪を手に取る。


「このまま?」

「このまま」


可笑しそうに笑う蓉子の顔に顔を近づけるといともあっさりキスが送られる。恥ずかしがってた時期が嘘みたい、至高の宝石じゃなくなった代わりに優しさが溶けた肌と肌の触れ合い。


「私以外を見ないで、私以外を知らない蓉子にするの」


んー、と伸びをすると足の先が布団からはみ出した。せっかく共有してた温度が奪い取られるのは面白くないからすぐさま引っ込めてまた丸まる。そのまま蓉子に抱きつく勢いで。


「なあに、そんな私が良いの?」


くすくすくす。女王さま、よりは野を駆けるお姫さまの無邪気さが覗く。その無垢さはどこから沸いて出たものか、純粋な瞳に私は縫い止められた。


「……昔の私なら、ためらいなく頷いてた、って、思うけど」


なんとか元のあたたかさにまで戻して、腿で蓉子の足を挟み込む。そのまま回転させていつもの体勢、冷たい背中よりすべすべの細い肢体がただ気持ちよくて。


「ふふ、今は?」


ためらい、という響きが口の中に残ったままで私は次の言葉を探す。言いたいことははっきりしてる、多分蓉子も言わずとも分かっている。たしかめるのはより確かな実感が欲しいから。


「……蓉子のこの目が、好きだから」


深い漆黒はとても落ち着いていて。全てが混ざり合って滲み出ているからこそ澄んでいる視線を単一に塗り潰してしまうのは余りに惜しい、から。


「ん……」


目を合わせたままの口づけは私の中にまたひとつ幸せを生み出した。この幸せがいつまでも欲しいから、だから、今は。












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10、それなりに満足だ



高い高い悲鳴で終焉を迎えた後、文字通りそのまま力尽きてしまった蓉子の身体を綺麗にして、幸福で満たされた心に突き動かされるまま。腕は重いし色々疲れてはいるけど軽い興奮状態から抜けきれなくて、冴えた目が蓉子の裸体を見つめている。規則正しく上下する胸、こちらを向くように横たえた身体が、無防備に私にさらされていて面映ゆい。

すうすうと眠る蓉子。私の傍で安心しきっていてくれるという、なんだか信じられない今の現実。

胸の裏側を掻かれる擽ったさに身を竦める手足が蓉子を求めて動こうとする。触れるだけで、蓉子に愛されてる実感が得られるなんて、幸せすぎて泣きそうになる。刹那の恋も永遠の愛情も要らない、今蓉子がいてくれれば良い。約束しなくともずっと一緒だって信じられる関係が嬉しい。

燃え盛る激情も嫉妬の煉獄も。胃を焼く絶望もない穏やかな日常。積み上げる愛撫、肌を重ねる優しさ、あなたの目に映る私。蓉子が微笑み、声をあげ、そして私に跡を残す。二の腕についた引っ掻き傷に触れる。嗚呼数日後には消えてしまうこの細傷でさえ。蓉子のくれたものだと思うと。

過日を思う。毎日がただ輝いていた日々。今となれば苦しい、純度百パーセントの恋愛。失う反動で深手を負った、私を蓉子はそっと見守っていた。他に何もできなかったの、なんて述懐されたほろ苦い笑み。私を楽にしてくれる居場所。塗り替えられなどしない。しないままで、私を受け入れてくれた。

不実だとは思わない。誰にだって過去はある。否定する方が、目を耳を塞ぐ方が、よっぽど問題だ。不健全だ。
――蓉子の、受け売り。

穏やかに眠る素顔に、唇を落とした。恥ずかしがる表情も蕩けた瞳も見られない、自分のためだけの口づけ。純度百パーセントの愛。たまにだけで良い。そう、こんな夜に一度だけと決めて、大事に守るくらいがちょうど良い。
蓉子が微かに息を漏らす。紅い唇が、私の名前を形作ったように見えて、応えるために私はもう一度顔を近づける。
ふたりの吐息が混ざりあい、ゆるくほどけ、私たちの回りをやさしく囲った。



















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