夕暮れ











あ、と思った。特に意味なんか無いのに立ち止まった私は知ってしまった。ここから薔薇の館の窓が、とても綺麗に見えることに。そして見つけてしまった。お姉さまと紅薔薇さまが、とても近くにお互いを置いていることに。お姉さまは笑っている。外から見ただけでは少し不機嫌に見える、照れ隠しのポーカーフェイス。分かるのは、近いからでは無く、無表情の裏の感情を読もうとする日々の努力の賜物からかも知れない。紅薔薇さまの方は本当に笑んでいる。特別な、お姉さまにだけ向けられる微笑み。そういえば、祐巳さんはもとより、祥子さまの表情も結構分かりやすい。不謹慎だったかと小さく首をすくめた。風が耳元を掠めて吹いていく。少し目を離した隙にカーテンは閉められていた。今日は薔薇の館には行かない方がいいかもしれない。会議は無いそうだし、と思って、だから無かったのか、とそれから納得した。のんびりしすぎじゃないの? 浮かんだのは何故か由乃さんの呆れた顔。
私とお姉さまはともかくとして、紅薔薇一家はやっぱりどこか共通点がある。それなら、黄薔薇は? 由乃さんから派生した思いつきは残りのお二人を自分の頭の中に思い浮かべたところで止まってしまった。3人の入った構図ではいつも由乃さんが拗ねている。大抵令さまは困っていて、ひとり、本当におかしそうに笑っているのは。



「志摩子」

言葉の端からとか、ほんの僅かに見え隠れする感情を見つけ出すのに私はもう慣れてしまった。今あるのは少しの高揚感。木枯らしに消えてしまいそうな語尾の上がり具合。


「はい」


振り向く前に、返事をした。私の言葉にはどんな思いが溶けているのだろう。そしてこの人はそれをどんな風に掬いとって、理解してくれているのだろう。はためくプリーツは、私のせいでは無いのだけれど。はしたないかもしれない、と斜めに覗く館の出窓から視線をずらしながら私はそっと裾を押さえた。込み上げる自分の感情を、そうしたかったのかもしれなかった。



「ごきげんよう、江利子さま」


名前で呼ぶのは周りに誰もいないから。江利子さまの口の端があがって、ごきげんようと返答。無造作を装って降ってくる手の平に、私は何も言わなかった。毛糸のちくちくとした感触が頭に乗せられる。そのまま優しく腕を取られ私たちは歩き出す。



待ち合わせはもう少し行った先のはずだった。けれど人通りのある往来でいちいち皆と挨拶を交わしながら待っているのは、なんとなく嫌だった。億劫だった。飛び込むように足を踏み入れた木々の間からは薔薇の館が綺麗に見えた。そしてそこで江利子さまは私を見つけてくれたのだ。右手だけが暖かい。ロザリオが、思い出したかのように時折音を立てている。



マリア像の前で自然と足を止める私を、江利子さまが笑う。喉の奥だけで。その慣習は、リリアン生なら誰しもが持っているものだろうに。いやお姉さまは違うかもしれない。それなら、江利子さまは。思わずまじまじと見てしまった視線の先に、あったのは唐突に黄薔薇さまの表情。頭を飛び越えた挨拶に、漸く自分の後ろの生徒の存在に気がついた。振り返るのには少しだけ躊躇いがある。だから、ただ、目を閉じて手を合わせる。いつも、ここに足を止めるのと同様に自然に出てくる筈の祈りの気持ちは、散華したままで私の周囲を漂っていた。困ってしまう。情けなくて目が開けられない。焦りにも似た気持ちを吹き飛ばしたのは右肩に置かれた重み。



「どうしたの?」


再び引っ張られた手はさっきよりも性急で。もう直に正門についてしまう。葉を落とした並木道は開け広げで、そこで何かを告白するには抵抗があった。そう、言い訳みたいに自分を誤魔化してしまうことに僅かな嫌悪感。握りしめてしまった手に、江利子さまの歩みが止まる。



「もう一度聞くわ。どうしたの?」


「……いえ、」


何でもありません、とは言わなかった。すぐにそうと知れる嘘はつきたくなかったから。一番大事なところが隠せていればいいのだ。今回は、小さな小さな嫉妬心と少しの悲しい気持ち。次第に大きくなってくる門扉への八つ当たりめいた感情。



「そ、」


素っ気ない表情の裏が、今回ばかりは分からなかった。胸に湧き上がったざわめきを、隠すことは困難で。不格好に伸びた手は放さないままで俯いた。


「寄り道でもしてみる?」


は、と顔をあげた先は開けた通り。いつの間にか、リリアンの敷地外。呆然としてしまう。何にかは分からないけれど。そんなことばかりだ。この人といる私は、いつも何かを探している。それは決まって抽象的で、気がつくと江利子さまの不適な笑みがその傍らにあるのだ。お姉さまのように庇護してはくれない。私はむき出しのまま江利子さまに触れられている。そんな気がしている。
けれどそれは不快ではないから。大抵は私はただ為すがままでいるのだ。そう、今のように。



「……大丈夫です」


多分、うまく笑えていた。


江利子さまからはちょっと残念そうな感じがしたけれど、本当かどうかは確証が持てない。私の期待が、事実を曲げてしまっているかもしれないからだ。自分の都合の良いようには極力考えない、というのはこの学校に来たときに決めていた。好きな人に自分の秘密も話せないのは、臆病だから。そんな自分が、江利子さまの手を離せずにいる。滑稽な情景を打破するのは事実自身の握力だけで可能なのに。


やっと、息を吸い込んで、力を緩めた。はたりと落ちた音がして江利子さまの表情は少し驚いていた。一瞬で掻き消えて、また笑う。それはさっき薔薇の館を覗き見たときの、あのふたりの雰囲気にも似ている気がして。



「ごきげんよう、黄薔薇さま」


敬称を変えたのは、誰のかも分からない足音のせいにしておいた。ちょっとした意趣返し。もう少し私のことを考えていて欲しいというのは、私の我が儘。今からふたりで制服でカフェ、は実現が難しい願いだから。



「ごきげんよう、志摩子」


いつもより僅かに遅い、返事の裏側をそっと透かし見る。また明日。ほかほかと暖かい右手はポケットの中。今度、ストレートで美味しい、とびきりの紅茶を淹れてあげよう。それからふたりで、あの小さな空間を見下ろしてみたい。江利子さまに教えてあげたい。

最近の私の頭の中はあなたでいっぱいなのだと。言ってしまうのは少し悔しかったから。小さく落とした我が儘をそのままにして、私はバス停に向かって一歩を踏み出した。





















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