あと少し




「ありがとう」

お茶を差し出すと、先輩の大きな手はそのまま私の指先ごとコップを包み込んで。優しく目を細めた顔がすっと近づいてくる。

「ん……」

ふたりきりのときの、ささやかにしては大胆な愛情表現にはまだ慣れない。
先輩が集中してるにも関わらず声をかけるのは、まず休憩を取ってもらいたいからなのは本当だから。先輩が右手から左手に持ち直すことでコップがようやく私から離れて、素直に口がつけられるのを確認して安堵の息をつく。
いつだったか、絵筆握り締めっぱなしだったせいで、落とされたからなー……。
紙コップだから割れはしなかったけどふたりとも制服が大変なことになって、トレーニング用のジャージで帰る羽目になった。しかも運の悪いことに順に見つかって、部室でナニやってたのさーとからかわれた。
(もちろんきっちり否定した。そしてそのあとで「どうせなら久我さんの言う原因で着替えた方がよかったわね」と隣でほのぼのと発言された。先輩まで道端で何言ってるんですか!と怒ったら駄目?と言われ、当たり前ですと返し、結局先輩のペースに引きずられて痴話喧嘩未満の会話をしばらく続けてしまったのだから頭が痛い。誰が聞いてるかわからない場所なのに、最後には嫌な理由までしっかり吐かされた。……帰路に着る服の確保というリミットを部室で外されるなんて全力で遠慮したい。)


「どうしたの? ゆかり」

「あ…いえ、何でもありません」


うっかり恥ずかしい記憶を思い返していました、なんて言えるはずもない。
そう?と首を傾ける先輩は軽く含み笑いだけど、まさか本当に内容を当てられているということはないだろう。藪蛇にはしたくないから肩をすくめてごまかして、水入れの中身を換えようと先輩の足元にかがむ。


「今日はもうちょっとだけのつもりだから、いいわ」

「そうですか?」


ずいぶん色を濃くしているから、気になっていたのだけれど。
できるだけ同じ環境で描き続けたいというのは分かるから、触れないまま引き下がって代わりに空のコップを受け取る。
昨日の段階ではまだ白かったキャンバスは、ほぼ一面が群青に染まっていた。
夕方を刻み終えた空。それなのに始まりを感じて、これがまだまだ未完成なんだという事実を眩しくも誇らしくも思う。


「あと少しなのにストップかけちゃって、すみません」

「いいのよ」


喉渇いてたのも、ゆかりとキスしたかったのも、本当だし。


「…一言多いですよ」

「ふふ」


完成前の小品にまであれほどの魂を込めてしまう先輩の手は、さっきは私の手を包み、顎に添えられていて、時には身体の隅々まで自在に巡りすらするのだと。
そんなの今更なのにうっかり思ってしまったせいで身体がじわりと熱を帯びたのには気づかない振りをして、私は自分の分のお茶を手に持ったコップに注いで一息に飲み干した。


「あ、間接キス」

「今更何言ってるんですか」

「でも嬉しいじゃない?」

「……知りません」

「ね、もう一杯ちょうだい」

「あと少しなら終わらせてからにしましょうよ」


先輩の不自然に輝きだした目からすると再間接キスか口移しか、とにかく休憩の本分を超えた期待をされている。
ため息をつくと先輩は口を尖らせたけど、私の発言に込めた意図に気がついたのかすぐに元に戻って。なんだか可愛くて少し笑う。
この絵、好きですと先輩のお誘い自体は否定しないままで伝えると、まっすぐ満面の笑みで返してくれるのは少しこそばゆい。


「ありがと」

「はい」


さて、あと少し、は本当にあと少しで終わってくれるだろうか。
まあ、絵に対する集中が勝って最後までちゃんとした自主活動になったとしても、それならそれで先輩の絵が完成に近づくのだから嬉しいし。
そろそろ休憩を取ってもらいたかったのに加え、ちょっとだけ構われたかったという希望も叶った私は先輩が絵筆とパレットを持つのを確認してから、そっと立ち上がる。
部室と廊下の境目で、捨ててしまう前に紙コップの淵にこっそり唇を寄せて頬を緩めた。










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