(なんてばかばかしいことを)



声をかけるのを一瞬躊躇うほどには、彼女は薄闇に小さくうずもれていた。
うずくまっている幻視をする程度には漠とした虚脱。呼びかければ、壁にもたれうつむいていた顔があがる。

「……先輩」

寄る辺無く途方を沈ませたその姿に、胸の奥が粟立った。
いけない感情だと知っているから、内罰は迅速に。隠し通して近寄れば、不安に彩られた表情が深みを帯びる。
ゆかり。もう一度呼びかけ直すべきところだと気づいていて、呼べなかった。
漏らしてはいけない想いが、溶け出してしまいそうで。
本人に注げない愛情の氾濫には、処理の方法と捌け口を覚えて久しい。
呼べない代わりに触れ、触れられない代わりに口付け、口付けられない代わりに繋ぎとめる。
いつでも出て行っていいのよ、と縛り付けた鎖の鍵をその小さな手に押し付ける。もういっぱいに抱え込み過ぎて潰れてしまいそうな華奢な腕を、そっと支えてあげる振りをしながら、僅かばかりの負荷を加える。
彼女の荷物を持ちたかった。こんなもの何でもないのよ、と微笑んで、ゆかりから取り除いてしまいたかった。
本当は、彼女の重荷になりたかった。









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次のしあわせのひとつ前(from密室の混線)



落ち着いた?

……はい

これ、どうしたらいいかしら

…そのまま、ください。
自分で出来ますから、

ん?
ということは私がやってもいいってことかしら?

…恥ずかしいので、勘弁してください

あら、その口ぶりだと経験有りね。
楽しみねー

だ、だから恥ずかしいって言ってるじゃないですか…っ

うん、だからまた今度、

…あんまり見ないでくださいよ

ふふ、これもそのうち慣れる……んじゃないの?

……そういう聞き方、ずるいです

うん、
初めてで、ごめんなさいね

そんな、私の方こそ、
……綺麗じゃなくてすみません

謝らないの。
今まで通ってきた道も含めて、私の好きなゆかりなんだから

……だって、私、

いいのよ

じゃあ先輩も謝らないでください

ふふ、了解しました。
それにしても、

え?

こうなってもまだ、先輩呼びなのね

……まき、

……!

や、やっぱり恥ずかしいので、おいおい……じゃだめですか?

ゆかり…!

きゃ……っ













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きのうわたしだったあの子




いつからかはわからない。思い返しても掴めずに空を切るし、本当は、掴むつもりもない。
けれど。
綾那の気持ちが少しずつ私から離れていくことに。
私は、確かに、安心したのだ。


「……ゆかり、」

「はい、」


罪の意識の苦しさを身をもって知ったのは、幼いひだまりを失ってからだった。
それが得難い陽向であったことすら知らなかった頃の自分の愚かさと、背中合わせの純真が私を責める。今この瞬間この手にあるはずの幸福を、素直に享受することを妨げる。
いい加減にしてほしい、と叫ぶ自分がいる。利己的で流されやすくて、わがままを振りかざす弱い意識。
それを覆い隠すための強がりを、周りは勝手に私だと認識する。
騙されてはくれない(あるいは、騙されたふりをする)ひとたちは、私をいつも苦しめる。


「すきです」


本心から出ていると一番知っている自分が、その言葉を一番信じられない矛盾。
顔に出すと先輩は悲しむから。傷つける、から。
だから顔を伏せたのに、当たり前のように掬ってくる、手。
暴かないで欲しいと心から思っているくせに、瞬時に肌を粟立たせるほどの歓喜を覚える、狡い感覚器官。
知覚温度の上昇とは裏腹に、先輩の与えてくれるものは全て貪り尽くそうとする浅ましさが胸を冷やす。


「だから、…ん、…ぅ……」


永遠が無いことを知った心が、素直に溺れ尽くすことを怖がって拒絶する。
お互い様、のはずの過去に、囚われたままでいたいと逃げたがる。
だって私が悪者でいるうちは、先輩は。
言い訳を手繰り寄せては織り上げる自己弁護を、あの頃の自分が軽蔑した目で見つめてくる。
昏い安堵がどろりと溶けるからこその快楽の深さに染み渡る目眩。


「好きよ、ゆかり」


流し込まれた欲の形を、私が飲み下している隙に告げられる。言い逃げ、される。
やめてください、言わなくてくださいと突き放してしまえたら。
先輩を悲しませるだろうその行為の想像には、禁じ手だからこその捻れた愉悦が混入して。
今の先輩を、この愛情を、信じてないわけじゃないんです。
だけれど素直に受け止めるだけの強さを持つには。あの安心から得られる幸福は、あまりに背徳的過ぎる。













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「もっと。」





不健全に籠った甘い空気を胸いっぱいに吸い込む。
嗅ぎなれた絵の具の匂いに混じる体臭はごく薄くて。汗や涙よりずっとわかりやすく届くのはゆかりの熱に、声。触れたところからの、反応。


「……もう、むり、です」


……彼女が無理というときは本当に限界なときだから。
逆に言うと、そこまで追い詰められなければ縋ることを良しとしない、ぎりぎりまで耐えて堪えてしまう性格。いじらしくもあるものの、心配でも、ある。
彼女を見ていると、強さとは優しさなのだと思う。
誰に向けるにせよ、ゆかりの厳しさにはいつも根拠があって、だけど、こういうときばかりはその根拠が「恥ずかしいから」などという、とても可愛らしいもので――


「ぁ、……んんっ」


震える肢体を持て余して身をよじる、(ことで私の指先に擦り付ける、)この光景をずっと見ていたいけれど、流石に泣かせてしまいそう。
どうせ泣かせるなら、気持ちよくて堪らないせいで泣かせてあげたいし。
苦しそうな表情を見るのは好きではない。けれど好きじゃないからこその快感があるのも確かで、そんなおかしな愛情を向けるのは間違っているからと、いつも封じ込めようとした挙句に、慌てたように結局指を増やしてしまう。
反射で反った背の撓め方が辛そうだったから、もうすぐ、だから。いつものように労わりのキスを送ると待ち望んでいたかのように回った両腕でかき抱かれた。


「す、みませ……」

「…なあに?」


言い訳にまぎれた最後のそれ、をゆるりと挿し入れて、ゆかりの内側をそうっと一周している途中。
途切れ途切れの訴えを拾い上げるために顔を寄せると、触れるだけのキス、にしようとしたのだろう唇が掠めて、堪えきれなかった息の塊を吐き出しながら戦慄いて私を煽った。


「なにを謝るの」

「……っは、……や、あ、ぁ…」


聞いておきながら、落ち着いて返答できるほどの休憩は与えてあげられない余裕のない自分。
弱々しい抵抗が、理性をかき集めようとするのをひとつひとつ諦めさせていく、ちっとも優しくなんかない愛撫。
爪は立てない。そういう、強い、刺激は最初の頂にはまだ早いから。


「……く、るし………」

「いっていいのよ?」


はやく、もっと素直になって。
蕩けた表情で、それでもまっすぐにこっちを見つめてくる彼女の瞳の奥が揺らいでいることに、途方もない安堵と多幸感を覚えながら優しく告げる。














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(なんてばかばかしいことを)「きのうわたしだったあの子」「もっと。」はふたりへのお題ったーよりお借りしました。










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