たからもの、だったもの(氷祈)





「ごめんなさい、もう無理です」


不満は山のようにあって、けれどそれに比する程度には幸福があって。満たされたと思ったとたん次の渇望が身を襲うのは、もらう量が少ないのか私が貪欲なのか、経験値が少なすぎてわからなくて。
目の前のこの人はいつも余裕そうで、それでもたまに見せる素顔に飛びついて夢中になって。
みっともない、と思うと竦んで止まる私が、そのあといつも充足を得ていたのは氷室さんの優しさが貰えたから。
わたしは、たしかに、しあわせでした。


「わたしが、もう無理なんです」

「だから?」


だから幸せだと思えるうちに、この輪を閉じてしまいたいんです。


「勘違いしないでくださいってことです。
 わたしが、あなたを、振ったんですからね」


ちっぽけな意地。大事に抱え続けて、ちっとも成長できないまま、


「……まあ、いいけれど。
 ガキの理論ね」

「…そうやって、いつまで経っても子ども扱い、するんですから。
 ……ひとつしか変わらないのに」


悔しかった。
少しだけ心地よかったから、なおさらムキになって躍起になって。
対等の座を欲しがった。
そのくせ甘やかされたくて、利害にもしがらみにも捕われない関係の繭にあたたかさがたしかにあるのが、ただ居心地が良くて。
愚直な真っ直ぐさを持てないのはお互い様だから、戯れの暗黙に紛れるから素直になることを、互いに許した。
本当は、この人にはそんな許しなど不要で無意味なのだと、薄々気づいてはいたけれど。


「別に私は紗枝が同い年でもこうしたけれど。
 それに、」

「……っ」

「最後まで敬語だったあなたに言われたくはないわね」

「…卑怯です。
 砕けた言葉使いを、氷室さんは望まなかったじゃないですか。」

「思い込みで決めつけられるのは不愉快ね。
 貴女の日本語が、嫌いじゃなかっただけよ」

「……そんなの、」


嗚呼、だからこの人は酷いのだ。
絡めとられて逃げられない。それが錯覚だとまだ幾ばくかの理性が認識しているうちに、冷たい幸せと引き換えに打ち捨ててしまう前に離れなければ、駄目になってしまう。


「出ていくなら、泣き止んでからにしてね。
 “祈さん”」


さよならより拒絶より、ずっと残酷な終わりの合図。
このまま部屋を出ていかれたら迷惑だというのはこの人の本心で、これ以上ないくらいにこの人の都合で、だからこそこの人特有の優しさだった。
錯覚かもしれない、思い込みでもかまわない。
わかりにくすぎる愛情に一喜一憂できた頃の私の残滓が、とろとろと頬を伝って流れて行った。














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フラスコをさかさまに(ナン紗枝)





…ごーいん

嫌いじゃねぇくせに

それは柊ちゃんとのキスだからであって、
シチュエーション的にはあんまり……って、ちょっと、

あ?
お嬢サマ、アンマシ時間ねぇの、わかってらっしゃいマス?

…まったく、
氷室さんでももうちょっと情緒あったわよ

ヒムロだあ?
……誰よ、それ

え、えーっと、
…………うーん、

何、あたしに言えないワケ?

そうじゃなくて。
どの切り口から説明したら柊ちゃんの満足になるのかしらって、

……とりあえず、キスを比較された理由から寄越せ

えー、そうねぇ…、
あー、ええと、私の、初めての相手?
で、いいのかしら?

……ほお。
んで、誰よそれ

あら、もしかして本気でご存知無い?

ご存知ねーな、生憎だが。

氷室暝子、高等部3年E組。
今は特A……だったかしら

ふーん、ヒムロ、氷室……ね。
そんでイチ上、と

卒業式で送辞もやってたのに……
あ、そうよ、柊ちゃんたちが生徒会入りしたときの特Aトップだった……んだけど……

あー、辞退がどうとかであたしらに回って来たんだっけ。
なんだかすげぇ面倒くさそうな……

……まあ、それは否定しないけど

りょーかい、つかこの話は一旦ここまでな。
じゃ、紗枝、

…え?

なに、続き、したくねぇの?

……したいけど

あと、あんたの過去と比べられて、多少なりとも傷ついてるんですケド?

……ごめんなさい、…ん、

ゴーカク。
ま、こっちも性急だったのは、悪かったしよ。
……んで、ホンキでイヤなら言えよ

うん、
柊ちゃんに直接…ね?

わかってんじゃねぇか

だからごめんなさいって、…っ、

だからあとで……な?

えー、まだ弁解しなきゃダメ?

失言したアンタが悪い

もー……、…っは、
そんな楽しいものじゃないわよ?

たりめーだろ。
だからこそ聞いときたい、っつーのもあるし

……どういう意味?

さァな

あ、ずるい

知ってるヤツに教える義理はねェよ

義理じゃなく愛情で教えてよー

今、教えてんじゃねぇか

……うーわ、恥ずかし…

うっせ


だから塞ぐ。文句あっか。













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各タイトルはふたりへのお題ったーよりお借りしました。










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