水深1400メートル(青葉×古鷹)





仕事帰りの気怠い足で、かんかんかんと階段を上がって。鞄のポケットから取り出した鍵で、開いたドアを片手で押さえて。ただいまといえば奥からおかえりなさいと帰ってくる。ただそれだけのことがこんなにも幸せなのだから、ひとりのひととして心を持てたことは、とてもいいことだ。
最初は頑なに、いらっしゃいと言われていた。固い青葉の顔、でも目線ばかりでなく首の根元から逸らされていたそれが横顔に近づいていき、やがてちらとでもこちらを見てくれるようになってくれた頃には少しだけ、惑う表情が覗くようにもなったから。わたしはあっさりと満足を得てしまって、ふわりあたたかくなる心のまま妹に報告したら、やすいおんなだと呆れた非難を浴びたっけ。加古が青葉ではなく、わたしの方を責めるのは珍しかったから思わず目をぱちくりさせてしまったわたしに、しまった、という顔をした彼女の唇に塗られたリップの色づきが、とても鮮やかなピンクだったことをいまでもよく覚えている。


きょう、古鷹さんが、

……うん、なあに?


意を決したような声がそこで止まってしまったことに首を傾げながらスプリングコートを渡す。頼まれた葱とパン粉とのりしお味のポテトチップスが入っている買い物袋の方にしようか、どうしようかと迷う前に差し出された手が、こちらを掴もうとしていたから。たぶん夜のお楽しみのポテチはともかく、葱とパン粉はいったんしまっちゃっていいのかな。それともいまから使うのかな。あおばー? 名前を呼ぶだけで、そこに出しておいてくださーいと帰ってくる。ふふっと笑って机上に出して、代わりに薄緑色のエコバックをたたむことにした。何か話したいみたいだから、夜までの時間はできるだけ短くしてあげないと、ね。


次は何をすればいい?

座っていてください。
あ、その前に手を洗って、

はいはい。


パン粉の封が開けられて、もう焼かれるばかりだったグラタン皿の上にさらさらとかけられていく。もうだいぶ暖かくなってきたから、これでしばらくは出てこないかなあ。いまの時期に作ってくれると、アスパラガスがいっぱい入っているから好き。気づかれてるかなとも思うけれど、ちゃんと口に出してしまったら季節を問わずいつもたくさん入れてくれるようになるのは間違いないから、内緒にしている。それくらいの贅沢はゆるされると思うんですよ、といえるようになった青葉のことはとっても好きだけれど、その特権は違うところで使って、発揮してほしい。たとえば仕事道具のカメラだとかレコーダーだとか、現場で食べるご飯の選び方とか。


牛乳はやめたよ

あーやっぱり高かったですか

うん。日曜に行くんでしょ?

行きます行きます。お昼はどっちのラーメン屋さんにしましょうか

うーん、味噌かなあ

わっかりましたぁ、


ぽくぽくと続いていく会話の合間、青葉はやっぱり何かを言いたがっている目をしていた。そろそろわたしが気づいてることに気づいただろう、うーと唸って、あ、食事中かその後にしようって顔をした。そういうところ、よくないと思うなあ。ずいぶん直ってきたけれど、やっぱりまだまだ、青葉の短所だよ。
グラタンが焼けるまでにはまだだいぶ時間がある。こういうの、選択ミスっていうんだっけ。青葉。


青葉。

はいっ!?

なあに?

う、……うー、いま、ですか?

どっちでもいいならいまがいいな。

……そうですか。


そこではいとかわかりましたとか言えないのが青葉のいけないところ。だめだな、どんどん辛辣になってきちゃう。青葉のこと、大好きなのに。大好きだからだよなんて面倒くさいこと、言いたくないし、そんなことを言い募る自分にはなりたくないのに。

そ、っと青葉が持ってきたのは彼女愛用のタブレット。気軽にひょいと覗き込んだら間違いなく青葉は慌てるから、ソファでいい子で待つ古鷹はいい子かな。どうかなあ。手は洗ったしうがいもしたし、頼まれた買い物もしてきたけれど。青葉の前で意地悪になっちゃう自分と、それを隠そうとする自分は、いつもいろんな感情と一緒にないまぜになってわたしの心を悪い子にさせる。


…………あ、

……その! おめでとうございます!!


見せられた写真と続くニュースの文面が、あまりに予想外だったから目が真ん丸になってしまった。そんなわたしを青葉はそわそわと動きながらソファに座りもせずにみてくるから、ちょっと力が抜けて楽になれた。ふふふふふ。青葉、こういうときは、ただ抱きしめてくれればいいの。
そういえば数日前、神通が見つかったんですって、って、やっぱりこの板を使って教えてもらったんだっけ。まさか次が自分になるとは。もうずっと昔の鉄塊が自分とそっくり同一だとはもう思わないけれど(だって二本の足を手に入れてからの、そしてそれが陸を歩くようになってからのわたしだって大切なわたしの一部なんだもの)、それでもやっぱり懐かしくて。かつての乗員の話を偶然(と言いながら、切り抜きをわざわざ鎮守府の自室まで持ってきてくれたのは叢雲だった)目にしたときの感慨に近くて、ああでも、こういうときに隣にいてくれる人がいる幸せが何よりうれしいと、思ってしまうわたしは駄目な古鷹かな。どうかな。
きっと聞いても答えてくれないだろう青葉は覚悟を決めたようにえいとわたしの隣に座ったから、わたしはタブレットを手で抱えるようにして彼女の方へ倒れ込んだ。硬直した感触、もたれかかればそれでもきゅっと握ってくれる指の優しさを、わたしはもうたくさん知っている。
艦娘だった頃はしていなかった化粧がとても自然に似合うようになった加古、いつの間にか髪をひとつに結わえて学校で先生をしている叢雲、まだ鎮守府の戦後処理班にいて、でも定期的に手紙をくれる衣笠。たぶんみんなで手を組んで、わたしの隣でがんばっている青葉にこの役割をくれたのだと思う。嬉しくて気恥ずかしい。皆にも、青葉にも。
だからぐりぐりと後頭部を押し付けて、あわよくばキスまでしてしまおうかと考えたのに。ちょうど都合よくちーんと音を立てたトースターに青葉のお腹がぐぅっと鳴って。あははと笑って離れたら名残惜しそうな指先が一瞬さ迷って、可愛かったから振り返れば悔しそうな表情の青葉。


あとでね。

……っ、

アスパラ、楽しみだなあ

……はいっ!


だから大サービスで言ってあげる、小さな贅沢がまたひとつ。いまからもこれからも、今日の夜もこれから届くだろう皆のお祝いのメッセージも、うん、楽しみだなあ。










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古鷹ちゃん発見おめでとう。











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